【お坊さんと問答】ちょっとした失敗のときに頼りにしているものはなんですかWhat do you rely on when you make a little mistake?

ちょっとした失敗のときに頼りにしているものはなんですか

私はイライラしたり大きい声で怒鳴ってしまいそうになる時にはなるべく笑うようにすると決めています。
ちょっとした失敗、人によって様々ちょっとした失敗があるかと思います。定義も様々でしょう。
例えば仕事で書類を作り間違えてしまったですとか、子供に対して感情的になって怒ってしまったですとか、アルバイトなんだけれども風邪をひいてしまったですとか。

仏教ではお釈迦様は人間というものは三つのものに振り回されてしまうと仰っている、と私は受け止めています。
三つの毒と言うんですけれども、三毒、貪・瞋・痴とまとめられています。むさぼりの心、貪。怒りの心、瞋。おろかさ、迷いの心、痴。
で貪瞋痴3つの毒、三毒です。
むさぼりの心、欲しい欲しいと思ってしまう。ものでもいいと思いますし誰か人間の心であったり時間など物理的な物質的な存在がないものも欲しいと思ってしまいますよね。
瞋、いかり自分の思い通りにならないので怒ってしまう、怒りの感情で我を忘れてしまう、イライラしてしまう。
痴、愚かさ迷いの心。自分の色眼鏡をかけた状態で世の中をどうしても見てしまう。自分の思った通りに動いて欲しいとか。

この三つは複雑に絡み合ってるのかなと思うんですけれども、その中でも瞋、怒りの心ですね。イライラしたり怒ってしまいそうになる時にはどうするか。
三つのものにどうしても振り回されてしまうともうわかってるのですから、じゃあその時にどうするかを決めておいたほうがよろしいんじゃないかなと思うんですね。
お釈迦様はその三つのものにどうしても振り回されてしまうので、そんな心の状態を冷静に観察して受け止めようと、そして手放していくということをお勧めしているわけなんですけれども。
瞑想慣れと言うか観察慣れをしていなかったら難しかったりもしますし、こうすればいいんじゃないかという一つの手段として私は笑うということをお勧めしたいと思うのです。
ちょっとした失敗の時には、まず笑ってみると。

例えば子育てをしている中で自分の子供がですね、ご飯をゆっくり食べていると。
時間もないのになぜそんなゆっくり食べてるんだ、しかもボロボロこぼしているし「ゆっくり食べてるんじゃなくてちゃんとかみかみごっくんしなさい」「綺麗にお食べなさい」と言っても子供ですから聞いてないふりするのか、聞こえていないだけなのか、とにかくゆっくり食べるものです。
または部屋がおもちゃで散らかってる。「早く片付けなさい」「出かける準備をしなさい」という風に言ってもまあそれも聞かないものですよね。ゆっくりやってるものです。
親は、周りの大人は子供のためを思って早く食べなさいとか片付けなさいとか言うわけです。
けれども子供は言うことを聞きません。
そこですんなり聞いてくれたら嬉しいなと思うかもしれませんけれども、基本的に親の思う通りに子供というのは動かない。

それは親と子供関係ないですね。
人間同士自分の思った通りに誰か周りの人が動いてくれるということは基本的に本来はありえないはずです。
神経でも繋がってない限り多分無理なんじゃないかと思うんですけれども、でもそこが身内だったり親子だったりすると不思議とそこの見え方が変わってしまうのが面白いところなんですけれども。
自分が子供のためを思ってこれだけ言っているのに何で聞いてくれないのかな、ってその気持ちがどんどん怒りに変わってきて大きな声で怒鳴ってしまう、感情的になってしまう。
すると向こうも感情的になって返してきて結局話が通用しない。そんなことがあるんじゃないかと思うんです。

そんな時にはどうするか。
お釈迦様はそのような事態になっていることをなるべく冷静になって受け止めて手放すということを言うんですけれどもまあ難しいんですね。
禅宗において「念起即覚」という言葉があるんですけれども、「念起こらば即ち覚めよ」っていう風に漢字で書きます。
そのようなお気持ちになったらば、そのようなお気持ちを起こしたら、なるべく即ち覚めよ、早く気づきましょうという言葉なんですけれども。

坐禅中にね、「ああお腹減ったな」とか「音が聞こえたなぁ」とかいう風に集中する事以外の事になるべく早く気づきましょうと言ったところにつながってくる話なんですけれども。
ただまぁ怒りというのは火に油を注ぐという表現がありますけれども、怒りが怒りを呼ぶんですよね。
雪だるまのように火だるまになっていく。そんな時もう決めてしまう。もう笑うというふうに決めてしまってはいかがでしょうか。
これには色々な効果があるんじゃないかと私は思ってるんですけれども、一つ笑うことによって冷静に受け止める時間を稼ぐことができるんじゃないか。

怒りに我を忘れようとしてしまってる時に別の感情で自分の心をリセットすると言ってもいいかもしれません。
またそれに似てるんですけれども、涙を流すから悲しいのか悲しいから涙を流すのかという論争がありますけれども、怒っていると怒りが怒りを呼びます。
であるならば、その怒ってるという状況を変えてまず笑ってみる。
笑ってるから楽しいのか楽しいから笑っているのかという状況にすり替えるということですね。
決して怒っていた自分を否定するというわけではないです。
怒っているなあという、怒っていたなぁと、大きな声で怒鳴りそうになっていたな、そんな状態でいた自分の気持ちを冷静になって見つめる、受け止めるために、そして受け止めたならば笑い飛ばすかのようにふわっと手放すことができるんじゃないかなぁと。
どうしても人間というものが貪・瞋・痴、欲しい欲しいという気持ち、怒りの心、自分の色眼鏡の世界の見方を持ってしまうものであるけれども、じゃあそんな時にどうすればいいかあらかじめ決めておけばいいと。
何もしないで冷静に受け止めるということは難しいので、とりあえず笑うと決めつけてしまうというのはどうだろうかというお話でございました。

ちょっとした失敗の時に頼りにしているものは何ですか?皆さんはいかがでしょうか 。

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向井真人 Mahito Mukai
南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧 帰依仏無上尊 帰依法離欲尊 帰依僧和合尊 帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟 如来至真等正覚 是我大師我今帰依 従今以往称仏為師 更不帰依邪魔外道 慈愍故 慈愍故 大慈愍故