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年間テーマ評論〈幻想とリアリズム〉②狩峰隆希「幻想としての人魚」

「幻想としての人魚」  狩峰隆希

 対象を注意深く観察することで、その物の新しい一面がみえてくる。その結果、一片の真理にでも触れた手応えを残す歌こそ、リアリズムと呼べるのではないか。ここでは染野太朗歌集『人魚』を取り上げ、幻想とリアリズムの関わりについてみていきたい。

 『人魚』の特徴の一つに、「五月十五日、馬橋(まばし)公園、青天に君をし思うこと許されず」のように日付や場所が具体的に書かれた歌が挙げられる。場所の歌では、「阿佐ヶ谷のスターバックス」「吉祥寺ヨドバシカメラ」など、店名と地域名をセットで扱うことが多い。あえてもう一つ書き込む感じといったらよいか、妙に情報の精度が高く、集中では目を引きやすい。と同時に、こうした具体情報はその時、その場所に自分が存在することの絶対性を裏打ちするものとなっている。他に商品名や小説のタイトルが詠まれた歌も数あり、全体を読むと、レシートの束のように作者の行動履歴や趣味嗜好が浮かび上がってくるのが面白い。

 現実に対しての丹念な描き出し、これによって歌がある種の本当らしさを得ている。『人魚』はそういう歌集であるのだ。その中で次のような歌などは殊に胸に迫ってくる。

 十六歳が通夜に頭を下ぐどんな顔すりゃいいのかという顔をして

 父を亡くして五日目の十六歳がバナナ食べおり体育のあとに

 父親を亡くしたクラス生徒が、教師である作者の視点から詠われている。「頭」はずと読んだ。「どんな顔すりゃいいのかという顔」に「十六歳」の動揺が紛れもない。父の死後から五日、その短い間にも日常が戻りつつあることが窺える。「体育のあとに」という時間の差し挟みが非凡だろう。一人で食べているとか、食事が喉を通りそうにないとか、「十六歳」の悲しみを焦点化した場面の切り取り方は他にもあるだろうが、あえて長尺に伸ばしたことで、体育の動の時間、食事の静の時間がみえてくる。時間の推移そのものに悲哀の影が添うようだ。

 同じ一連には「涙つたう頰もあわてて拭う手も十六歳は日焼けしており」という歌もあって胸を打つ。日焼けは生の象徴であろう。十六歳という年齢の若さと父のいないこれからの時間の長さ。生と死の交錯する瞬間が眼差し深く詠われていると感じる。

 他方で、幻想とはどのようなものであるか。幻想は、評の言葉としては稀で、ふつう「空想」「想像」といったりする。日常の中の例では、息を呑むような美しい光景をみると、幻想的だと感じることがある。あるいは、あまりに大きな夢や野望のことを揶揄するときにも、幻想という言葉は用いられる。翻って、短歌の場合の幻想とは、現実を映し鏡としながら、現実にはとらえきれない世界の様相を示したもの、というのが私の考えである。これにあてはまるのが、歌集の表題にもなっている次の二首だ。

 尾鰭つかみ浴槽の縁(ふち)に叩きつけ人魚を放つ 仰向けに浮く

 尾鰭つかみ人魚を掲ぐ 死ののちも眼(め)は濡れながらぼくを映さず

 しかしながら、この人魚の正体や存在意義については謎な部分もあり、一首単体で読み解くのは難しい。歌集の中で人魚がどのような位置付けにあるか、またなぜ幻想の歌といえるのか、このことを説明するためにもう少し他の作品を引く。

 胸倉を摑んでまでもこいつらに伝えんことのなきまま摑む

 福嶋を原発野郎と笑う生徒(こ)を叱ることさえうまくできない

 逃げてんじゃねえぞおまえの成績で指定校推薦(していこう)など無理だと言わず

 学校現場の歌三首。一首目、胸倉を摑みながら、その実摑んでまでも「伝えんこと」のないという。伝えても仕方がない、という諦観が底に覗ける。二首目は、震災後の原発事故のことが踏まえられている。思うように叱れないのは、叱る側の倫理観や道徳観が如実に問われるような場面だからであろう。教師としての葛藤が率直に表れ出ている。

 伝えない、うまく叱れない。こうした表現からはある種の抑制がみてとれる。自分を押さえ込む方向に強く力がかかるのだ。三首目も「無理だと言わず」と言葉を堪える歌で、やはり同じ方向にいっている。このような抑制の表現は『人魚』の一つの傾向であり、「好きなものを好きと言えないわたくしを仏像として拝んでほしい」「年賀状に家族写真を載せるのはもういいやめろあてつけかと言わず」という具合に繰り返し描かれている。

 夕焼けに手を振るような恥ずかしさ君が欲しいと強く思えば

 一度だけ抜こうとしたが 教室の壁に錆びたる四つの画鋲 

 さらに少し角度を変えると、こういう歌もある。一首目は君が欲しいと思うときに兆す含羞が、自然な心の動きのようで、どこか内罰的でもある。欲しいと思う感情がやや抑え込まれて感じる。

 自意識や他者への嫌悪感、怒り、あるいは暴力への欲求が生々しい作品もまたこの歌集には多いが、その中で二首目はどこか暗喩的で、「四つの画鋲」が理性を保つ留め具のように読めてくる。

 これらを踏まえ、再び「尾鰭つかみ浴槽の縁(ふち)に叩きつけ人魚を放つ 仰向けに浮く」「尾鰭つかみ人魚を掲ぐ 死ののちも眼(め)は濡れながらぼくを映さず」の話に戻る。抑制が幾度も顔を覗かせるということは、それだけ日々に感じる外的圧力があるということだ。そして、この外的圧力という負荷エネルギーが放出されるとき、その矛先となるのが人魚であるとみることができる。

 人は誰しも現実への反感を抱いているが、人魚の歌においてのそれは尋常ではない。その理由は、命を殺めるという重大な行為がとられていることによる。この描写が可能となるのは、むろん人魚が架空の生物だからなのだが、同時に人の要素も多分にあることが恐ろしくもある。他にも、浴槽という場所が人魚にとっての海の暮らしと隔たっており、人工的なものの支配を感じさせるところや、「眼(め)は濡れながらぼくを映さず」が魚類特有の白濁した眼を思わせながら、それが「ぼく」を映さない、つまり表情やその奥の本心が窺い知れぬところなどに狂気を感じる。

 この外的圧力への反動として人魚を殺める構図はとてもグロテスクだが、そのグロテスクな一面に、現実にはとらえきれない世界の様相が示されていよう。ここに、幻想の特性がみられる。現実への肉薄がなければ、この境地は到底詠い得られないだろう。

 また人魚をより普遍的に、抽象化して詠ったのが「君の手の触れたすべてに触れたあとこの手で君を殴りつづける」「君を殴る殴りつづける カーテンが冬のひかりを放ちはじめる」における「君」だろう。これなども「殴りつづける」とあるように、外的抑圧への反動がみられ、幻想への回路を持っている。

 さらに、歌集における幻想の歌はこの他にもあり、中でも蜻蛉の存在は大きい。

 夏の夕 とんぼがぼくの腹の上(え)に産みつけていく無数の卵(たまご)

 腹の上に産みつけられて寝返りを打てず噴き出す汗を拭えず

 ぼくの汗をとんぼが舐める舐めながら白い卵をなお産みつづく

 「無数」と題する連作八首のうち三首を引いた。肉体への産卵というのが異常だろう。また人魚の歌とは反対に、外的圧力をより強める方向に詠われているのが特徴的だ。

 人魚や蜻蛉、これらは先に引いた「十六歳」の歌とはアプローチが全くもって異なる。しかし結果的に、世界の様相を新しく、かつリアルにみせるものとなっている。つまり、リアリズムと非常に近い手法がとられているのである。『人魚』が人間の真理に迫った歌集と感じられるのは、ある意味、幻想を内包するリアリズムという二重のリアリズムがとられているからではないかと思う。

 さて、同人誌「外出」六号では、染野太朗特集の一環で、同人の染野に対してインタビューが行われている。その中で、染野が人魚と蜻蛉について言及した箇所がある。

(…)『あの日の海』とか『人魚』の頃はとにかく、「この世界では足りない」みないなこと思ってたわ、思い出してきた。ぜんぜん自分の内面と釣り合わないというか、受け皿がないような感覚。釣り合わない、っていうと自分に過剰に価値があるみたいに受け取られるかな…そうじゃなくて、どこにも拠り所がない、ぜんっぜん世界や他人のルールがわからない、みたいな。なんでそんなにみんな普通の顔していられるの、どこでそのやり方学んだの?っていう。まあでもこれは思春期とか青春期の特性だと思う。その結果登場してきたのが人魚とか、蜻蛉とかだったかな。足りないから空想のほうで秩序作りをしていた感じ。

 「この世界では足りない」というのが肝だろう。そして足りないために人魚や蜻蛉で秩序作りをしていたとする。

 人がおよそ社会経験を通して世の渡り方を憶えるのに対し、空想による秩序作りはその裏をいくようで興味深い。こちらからルールをつくることで、世界を自分の認識する通りの姿に近づけていく、という感じかと思う。実際に歌集から立ち上がる作者固有の世界をみるに、この手法は功を奏しているといえる。空想、幻想のもちうる一つの有用な機能として、記憶したい。


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