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「愛を持ってものを選ぶ」ためにデザイナーの僕が向き合いたいこと。

神岡 真拓です。

久しぶりにnoteを書きます。

僕は今年の4月末にグラフィックデザイナーとしてお世話になったデザイン会社を辞め、5月にcocochiという屋号のもとロゴ/グラフィックデザイナーとして独立いたしました。

このご時世、考え方なのか、信じて良いものなのか、価値観なのか、なんだかようわからんものがめまぐるしく変わってきている気配をひしひしと感じながら、前職の最終出社日を迎えたのを覚えています。

各々に課せられた自粛によって、ぷかぷかと宙に浮いてしまったような2ヶ月間。ぷかぷかという語感ほど可愛げのあるものではないですが、今思い返すと、なんだか暗い夜の海を漂っているような気分だったように思います。

なんとか乗り越えて、個人的には以前ほどの息苦しさは減ってきました。(またどんどんと感染者数は増えてしまっていますし、手放しで喜べるわけではありませんが。。)

そうやって自粛ムードが徐々にひらけてくる時期に実感したこと、そしてこれから僕が向き合うべきだと思ったことを、つらつらと綴ってみることにします。

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なんでもない日々が気づかせてくれた「ものの選び方」

自粛期間中からよく、気分転換に家から徒歩圏内を同居人(恋人)と散歩することがありました。コーヒーやお昼をテイクアウトしたり、夜の公園でぼ〜〜っとしたり。

僕の今住んでいる高円寺という街は、言わずと知れた古着の街。

5歩歩けば古着屋。(これは言い過ぎ)

なんなら家のマンションの一階が古着屋。(これは本当)

恋人は正直、僕より7.35倍お洒落。服が好きで、きちんと身嗜みに気を遣っていてすごいなあ、と三十路に間違えられるような無精髭を生やした23歳はいつもぼやいています。

当然のことながら、散歩をすると古着屋に吸い込まれるように入っていくわけです。僕も、おしゃれ度が相手より劣っていようとも服は好き。追いかけて入店。

何気なくウィンドウショッピングをする中で、僕としては驚くようなことを同居人がぼそっと口にしたのです。

「服買うときは絶対試着してから買うんだよね。」

「えっ」

思わず声が漏れてしまった。

ちょっと待て、そんな驚くところじゃない。と思ったそこのあなた、とりあえず一度僕に視座を合わせていただけますと。。。(笑)

後日、これまた服と骨董品を見に下北沢に行きました(もちろん自粛緩和されてから)。そこで、可愛いオーバーオールを見つけたのです。ポケットの形と肩のベルトのあしらいが特徴の白いオーバーオール。

先ほどの僕のリアクションからも分かるとおり、僕は面倒くさがりで、試着なんてよっぽどのことがない限りしない。「フィーリング」と託けて、さくっとお会計。

しかしそれ故に、前に言っていた恋人の言葉がすごく印象に残っていたのです。せっかくなので試着することにしました。

袖を通すと、また違った良さが。思ってたよりもシルエットが可愛い。

自分でいうのもなんですが、めちゃくちゃ似合ってました。というか、鏡の向こうの僕が嬉しそうに見えるような、そんな感覚。

ちょっと高いけれど、「服が着て欲しそうにこちらを見ている」ような気持ちになったので買うことにしました。(どんな気持ちだよ)


服が好き。だと思ってた。


思えば、服に限らず「なんでも良いや」と思ってしょうがなく手に取ったものは、長く、または丁寧に使うまでに至らない機会が多かった気がします。タンスの奥に追いやられていたり、あっという間に処分してしまったり、弟のお下がりになったり。

「私は『これは私が着てあげないといけないな』と思えたものを買うようにしているよ」

恋人が僕より7.35倍お洒落なのはきっと、愛を持って服を選んでいるからなんだろう。

「愛を持ってものを選ぶ」その選択が、ものを長く丁寧に愛することの近道になること。

至極当たり前のような、でも忘れてしまいがちなことに、なんでもない日々が気づかせてくれました。


「愛を持ってものを選ぶ」ことに必要なもの

では愛を持ってものを選ぶには、何が必要なのだろう?ちょっと考えてみました。

僕は「愛を持ってものを選ぶ」行為の前提に「ものを『知る』」という行動が必要なのではないか。それも「ものの何を知るか」が大切だと思うのです。

それは、ものであっても企業であっても人であっても、一面を知っただけでは全てはわからないから。僕らが思っているよりずっと多面的です。

検索窓を叩けば様々な答えがすぐに出る今の時代、「答え」同士を比較して、自分に最適なものを見つけ出すこともできます。例えば「機能・スキル」なんかは、比較しやすい「答え」のひとつとして挙げられるのではないでしょうか。

けれど、それで本当に「愛を持ってものを選ぶ」ことができるのか、僕は疑問に思います。

服を試着した時を思い出すと、そのとき知った「何か」は「機能」のようなわかりやすいものではない、見て触れて感じる「情緒」的なものでした。

情緒」は、「機能」のようにはっきりとした「答え」ではありません。

シルエットを見る。袖を通す。様々な方法を使って、表向きに言語化がなされていない細かく曖昧な「情緒」を自分の感性というフィルターを通して「知る」こと。

行為としては「知る」だと思うのですが、感覚としては「見出す」と言った方があっているかもしれません。

「愛を持ってものを選ぶ」ことに必要なものは、そんな「『情緒』という曖昧なものを『知る』」ことにあるのではないでしょうか。様々なものが乱立してひしめき合う昨今で、これからの判断基準が「情緒」になっていけば、暮らしも、心も、豊かになっていくんじゃないのかな、と思います。


僕が向き合いたいと思ったこと

また、今までの「消費者」視点の話から、ものを作り売る「生産者」に視点を移してみます。

昨今の状況を見てみると、そこでは良いもの、良い企業であったとしても「似たようなもの」として認識されてしまうジレンマがあります。確かに、競争が生まれ、よりいいものが生まれる可能性・機会が増えているという見方もできるでしょう。

しかし、前述している「愛を持ってものを選ぶ(選んでもらう)」という関係性においては、消費者との深い関係性が築きにくくなってしまう一因であるともいえます。

そこに僕は1デザイナーとして、生産者側に立ちながら「愛を持ってものを選ぶ」機会をひとつひとつつくり、人ともの・企業が長く丁寧に愛し愛され合う関係を作り出したい。

そのためには生産者側が自分たち・自分たちの作ったものの「情緒」をしっかり理解している必要があります。

自分たちの持ちうる「情緒」に気づくこと。「情緒」を真っ直ぐ伝わるように整え「ブランド」を作り上げること。これからはロゴ/グラフィックデザインを超えて、そこのお手伝いができないかと考えています。

long life ならぬ long love な関係を。

試着をした時に感じたあの気持ちを忘れずに。



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