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世界を敵にしたロシアの変容 求められる政治体制を超えた人間愛

 ロシアのウクライナ侵攻は長期戦となった。ウクライナのNATO加入問題に端を発しエスカレートしてしまった。いかなる理由があっても武力行使は許されない。しかし国連など外交での解決策は見出せず、ここに至ったことは嘆かわしい。いまや世界を敵に回した感のロシアに一度だけ旅したことがあった。1956年の日ソ共同宣言から日露国交回復50周年の記念にあたる2006年に、エルミタージュとプーシキン美術館を中心とした美術紀行だった。しかし何より1991年12月にソビエト連邦が崩壊した後の国情を見たかった。そのロシアへの旅から16年の歳月が流れたが、当時危惧していた民主主義とはいえない政治体制によって、かつての連邦国を爆撃する暴挙が現実となった。旅のリポートとともに、私がロシアに抱いてきた経緯や感懐を書きとどめておこう。

■ロシア帝政から革命、波乱の歴史

 思えば1963年に四国の片田舎から上京し入学した大学では、不穏な空気が流れていた。60年安保を経て70年安保への闘争が続く。大学構内にはスローガンの掲げた立て看板が並び、デモ活動も日常的だった。何度か学生会館の自主運営の集会にも出たが、デモなどの学生運動には距離を置いていた。

 しかし私には当時、アメリカがベトナム戦争をエスカレートさせたため、資本主義=帝国主義といった受けとめで、反戦や「安保反対」の思いが膨らんだ。資本主義は18‐19世紀、封建社会から「自由と競争」の価値観のもとに進歩的な役割を担った。ところが20世紀に入って、人間が人間を搾取する矛盾や貧富の不平等が噴出した。

 「資本主義から社会主義への移行は歴史的必然だ」といったマルクス・レーニン主義は、社会の貧富を解消する新たな経済システムとして、私なりに理解した。大学卒業後、新聞社に入った私は、世界の動きをリアルタイムで知ることができた。国際情勢は複雑で、混迷を深めていた。

 東欧で市民革命が相次ぎ、ベルリンの壁の崩壊、ハンガリー動乱、プラハの春……と続いた。そして20世紀末、ソビエト連邦型の社会主義が挫折したのだ。統制経済の破綻や一党独裁に対する不満が要因だった。

 世界を旅していつも念頭にあったのは、同じ一つの地球に暮らしていながら、生まれた国の政治体制が人々の生活に重くのしかかっていることだ。いつか私たちと政治体制の異なる社会主義の国をこの目で確認したいと思い続けていた。

 1990年代には何度か中国に出張した。中国では「政治は共産主義、経済は市場経済」といった割り切り方で近代化を進め、訪問の度に高成長を続けていた。しかし都市と地方の地域間格差や労働者と農民の格差が際立つようになった。北京や上海などの大都市から離れ、新疆ウイグル自治区などに出向くと、同じ国かと疑いたくなるほどの貧しさを直視した。

 21世紀に入って、2005年秋に北朝鮮、2006年暮れにロシア、その後もかつて社会主義国だったベトナム・カンボジア、モンゴル、現在も資本主義とは一線を画するイランやキューバを訪れてみた。この連載でイランやキューバ、モンゴルについてはすでにリポートしているが、それぞれ難題を抱えながら独自の道を探っている。

■宮殿だったエルミタージュ美術館

ゆったり流れるネヴァ川。エルミタージュ美術館は川に沿って立地する

 初めて訪れたロシアは、ソウル経由でサンクトペテルブルクへ。街なかをネヴァ川がゆったりと流れ、「北のベニス」とも呼ばれる美しい土地だ。約300年前、ピョートル大帝によって築かれた比較的新しい都のあった所だが、革命や戦争の悲しい歴史の中で、その地名をサンクトペテルブルグからペトログラード、レニングラード、そして由緒ある元の地名に戻った。

ネヴァ川の夜景

 ネヴァ川に沿って立地するエルミタージュ美術館は、川面に淡い緑と白い壁面を映し建物が絵になる美しさだ。美の殿堂は、冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心に小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場の5つの建物で構成され、400を超える展示室があり、所蔵作品は300万点にも及ぶという。

美の殿堂、エルミタージュ美術館の外観
エルミタージュ冬宮の入口

 川側から入館すると、白い大理石の階段に赤いカーペットが敷かれていた。階段を上り詰めた踊り場では花崗岩の一枚岩の柱が並んでいる。「大使の階段」とも呼ばれていた所だ。これは各国の大使がこの階段から昇り、皇帝のもとに赴いたことで名付けられている。

冬宮中央階段「大使の階段」

 まず「将軍の間」や「ピョートル大帝の間」「紋章の間」「1812年の祖国戦争の画廊」を抜け、「玉座の間」に入った。ここは冬宮の公式の広間で、儀式が行われた重要な所だ。白い大理石と金の装飾に囲まれ、赤いパネルを背にした玉座と双頭のワシの紋章が印象的だった。

冬宮にある「ピョートル大帝の間」

 ここから小エルミタージュの「バヴィリオリンの間」に進む。古代ローマとオリエントが融合したような空間で、床に八角形のモザイクがはめ込まれていた。さらに「孔雀の時計」と呼ばれるカラクリ時計が設置されている。18世紀後半にイギリスで製造され、ネジを巻くと静かな音楽の旋律が響き、雌鳥がいななき、フクロウが瞬きをし、孔雀が羽を広げるという。

「孔雀の時計」と呼ばれるカラクリ時計

 旧エルミタージュに移ると、13-16世紀のイタリアルネッサンス美術が飛び込んでくる。しかもレオナルド・ダ・ヴィンチの名作《リッタの聖母》があり、ラファエロの《コネスタービレの聖母》などが迫ってくる。新エルミタージュでは、ルーベンスの《バッカス》も圧巻だった。

ラファエロの《コネスタービレの聖母》
ルーベンスの《バッカス》

 丹念に見ていると時間が足りず、冬宮の3階に移動した。ここにはお目当ての19-20世紀のヨーロッパ美術がある。セザンヌ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、そしてマティス、ピカソと、これでもかこれでもかと名画のオンパレードだ。

 中でもマティスの代表作《ダンス》には足を止めた。裸体の朱と空の青、地面の緑という極めて少ない色彩で躍動感あふれる表現だ。セザンヌの《タバコを呑む男》や、ゴッホの《アルルの女》、ゴーギャンの《実を持つ女》なども強烈でした。日本の美術館とは雲泥の存在感に圧倒された。

マティスの代表作《ダンス》

 エルミタージュ美術館は、歴代皇帝の居住地であり、この宮殿が美術館となるきっかけになったのは、18世紀半ば、女帝のエカテリーナ2世がベルリンの画商から220点ほどの絵画を買い入れたことに始まる。フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」という名称もそれに由来すると思われた。女帝の「名画を鑑賞しているのは私とネズミだけ」といった言葉が残っているほどだ。

 以来、王家の収集品は、ナポレオン軍を撃退してからはフランスのほか、オランダ、スペイン、イタリアからも買い増しをした。1917年のロシア革命後には、貴族や富豪の持っていた収集品も没収し美術館の所蔵品となった。

 サンクトペテルブルクでは、エルミタージュ美術館のほか、ピョートル大帝夏の宮殿や聖イサアク大聖堂、スモーリヌイ修道院、郊外にあるエカテリーナ宮殿も見学した。ここは大黒屋光太夫がエカテリーナⅡ世に謁見し、2006年春のサミットでレセプションが催された所だ。

ピョートル大帝夏の宮殿
夏の宮殿の庭
聖イサアク大聖堂
スモーリヌイ修道院

 金箔に輝く宮殿などロシア・バロック様式の豪壮華麗さを確認すると同時に、一方でロシア帝政の権力の横暴ぶりを実感したのだった。同行した朝日新聞社時代の先輩が「これでは革命が起こるのも当然だ」と、もらした言葉に同感した。

金箔に輝くエカテリーナ宮殿

 ロシア帝国は滅亡の時まで、地球の陸地面積の七分の一を占める世界最大の国家であった。19世紀、ロシアには憲法も議会も存在せず、皇帝が無制限の権力を握っていた。皇帝の下には、人口1%に満たない特権階層として、貴族がいた。人口の圧倒的多数は、貧しく無学な農民だった。

ピョートル大帝 青銅の騎士記念碑
騎士記念碑前での結婚記念撮影

 サンクトペテルブルクといえば、ウラジーミル・プーチン大統領の出身地だ。ガイドの説明だと、崩壊ソ連後、第一副市長をしていたこともあり、モスクワに異動してから頭角を現したという。「地元では人気があります。現在も二人の娘さんが父の母校、サンクトペテルブルク大学に通っていて、下の娘さんは日本史を学んでいますよ」とのことだった。

 プーチン大統領はロシア連邦大統領府の総務局次長からKGBの後身であるロシア連邦保安庁の長官を務め、ボリス・エリツィンの信頼を得て、大統領代行に指名された。2000年の選挙で正式に大統領となり、2004年は圧倒的な得票率で再選された。しかし「我々の敵はテロリストでなく、ジャーナリストだ」との発言もあり、私はその権威主義をいぶかしく思っていた。

スウェーデンとのネヴァ川河畔の戦いの名残である砲台

■華やかな建物群に権威主義の印象

 サンクトペテルブルクからモスクワへは列車で移動した。約650キロ、8時間の列車旅で、広い大地を車窓にロシア革命史を読んだ。1917年の十月革命は、初の社会主義革命として世界史上重要な意義を持った。レーニン、トロツキーらの革命指導のもと、「労働者と農民の政権を樹立する」という理論通りに事を進めたのであった。

 ところが革命後の現実は、理論と異なった。土地を得た農民が保守化し、革命の進展を望まなくなった。労働者にとって「土地を持った農民は敵ではないのか」という疑問が生じた。スターリンは「すべての農民は公有農場で働く労働者でなければならない」と、集団化を強行して再び農民から土地を奪った。

 「自由・平等・博愛」を謳ったフランス革命ですら、テロ合戦で数十万人が命を落としたのだから、階級闘争を掲げたロシア革命による犠牲者は内戦・粛正・飢餓・集団化で数千万人にのぼると言われている。多くの犠牲で誕生したソ連邦だったが、経済的に行き詰まり、東欧各国などで民族運動が生じた。つい1991年12月25日に、ミハイル・ゴルバチョフ大統領が辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体されたのだ。

広大な「赤の広場」。クレムリン城壁側を臨む
レーニン廟

 モスクワは想像通りの歴史都市だった。赤の広場にレーニン廟があったが、休日でのぞけなかった。広場をはさんで赤い城壁の向こうがクレムリンで、手前に高級ブティックのグム百貨店があった。アンバランスではあるものの、繁栄ぶりを誇示しているような光景に映った。

広大な「赤の広場」。グム百貨店側を臨む
高級ブティックのグム百貨店
クレムリン城壁
グムのKENZOU店
赤の広場ではファショナブルな女性たちも

 プーシキン美術館はクレムリンの赤の広場から歩いて30分足らず行くことができた。壮麗な外観を誇る名建築に一大コレクションが詰まっていた。1912年にモスクワ大学付属の美術館を公共化させる目的で開設されたという。1937年にモスクワ出身の詩人プーシキンの名前を冠して改称された。

プーシキン美術館の入口
名画が並ぶプーシキン美術館の館内

 シチューキン(1854-1936)とモロゾフ(1871-1921)の2人の実業家は、19世紀末から第一次世界大戦までの早い時期に短期間で精力的にフランス近代絵画を集めた。当時認められたばかりの印象派に端を発し、マティスやピカソなど一般に評価の定まっていない芸術家たちの作品も購入するなど、優れた審美眼を発揮し、後世になって質の高いコレクションとして、世界的な評価を得た。

 2人の収集したフランス印象派と後期印象派の優れたコレクションはロシア革命後、国有化され近代西欧美術館に所蔵されていたが、1940年代になって閉館となり、エルミタージュとともにプーシキンの両美術館に分割所蔵されたのだった。

 重厚な建物を入ると、博物館を思わせる彫刻が威風堂々と展示され、入り口をはさんで2、3階に古典絵画や版画、写真に至るまで多種多様な作品が所狭しと並んでいた。所蔵品は古代エジプト・メソポタミアやギリシャ・ローマ美術、ルネサンスからヨーロッパ絵画、東洋美術など50万点に及ぶ。
中でもマティスの《金魚》はやはり目玉作品としての光彩を放っていた。テーブルにかれた鉢の中で泳ぐ金魚の構図だが、色調の妙は見飽きないものがあった。

マティスの《金魚》

 セザンヌの《池にかかる橋》は、木々が豊かに茂る森のなか、木製の橋が池にかかっていて、池の水面が鏡となって木々を映す。ゴッホの《刑務所の中庭》は、死の5カ月前の作品で、高いレンガ壁で囲まれた刑務所の一角を描いている。受刑者たちが輪をつくって歩いている様子は、ゴッホの心象風景を垣間見る思いがして釘付けになった。

 モスクワの地下鉄駅の華麗さには驚かされた。地下鉄は大まかにいって環状線と、放射線状に郊外に散らばって行く路線から構成されている。長くて速度の速いエスカレーターをどんどんと下りて行くと、アーチ状の地下宮殿のような豪華絢爛なホームが現れる。モザイクの壁画や天井絵にうっとりする。いくつかの駅頭に降り、鑑賞して回った。

まるで美術館のような華麗な装飾のある地下鉄ホーム
別の地下鉄ホーム

 モスクワでは地下鉄を乗り継いで、モスクワ大学をはじめ、トロイツカヤ塔などの名所を見学した。

モスクワ大学
露天の土産屋.

 街中の露天所の土産物屋なども散策し、名物のマトリューシカ人形を買った。マトリューシカには歴代大統領の顔を模したものもあり、見ているだけでも楽しい。

露天の土産屋
ロシア名物のマトリューシカ

 ロシアは近年、原油高騰などを背景に強気の資源外交を展開。プーチン大統領率いるロシアは再び独裁体制復活を目論んでいるかと思える政策を推し進めている。二都を巡った旅には、社会主義国の生活臭は感じられなかった。むしろクレムリンの華やかな建物群から受けた権威主義が印象に残った。帰国後も反プーチン派の暗殺や言論人への弾圧報道が続いた。「暗黒の歴史は繰り返す」の危惧が、なおぬぐえないでいた。そして今回のウクライナ侵攻だ。

■「変化」の時代に応じたモノサシを

 一方、資本主義の旗頭であるアメリカは冷戦構造に終止符を打ち世界の主導権を完全に握ったかに思われたが、2001年の同時多発テロ「9・11」以来、アフガン、イラク戦争に突入し抜き差しならぬ窮地に追い込まれてしまった。

 2003年晩秋、ニューヨークであの忌まわしいテロによるグラウンド・ゼロに立った。2700人以上の犠牲者の中に日本人からも6家族11人がいた。新たなビル建設のための工事用の壁には花が飾られ犠牲者の写真も掛けられていた。「なんという時代になったのか。人類は愚かな生き物だ」と思った。サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」で、冷戦後の国際秩序を、多文明間の対立構造を解き明かしているが、近代社会がもたらせた不幸な惨事だった。

 21世紀こそ「平和の世紀」と期待されたが、現実は遠のいている感すらある。私たちの生きる世界は、決して明るい未来とは言い切れない。グローバリゼーションやビッグバンという言葉がキーワードになった現代は、情報がすべての鍵をにぎる時代でもある。社会や経済、国家のあり方を規定してきたモノサシが通用しなくなり、21世紀の世界は大きな「変化」を求めて動き出している。インターネットの普及で、その変化は外に見える世界だけではなく、情報社会はこの時代を生きるすべての人々の心を動かしている。

 世界を知ろうと57ヵ国を旅した。社会・共産主義国も垣間見た。そこは理想郷ではなかった。混迷する世の中にあって大切なことは、「人権の尊重」に尽きるのではなかろうか。独裁国家の最大の問題点は人権の無視だ。人の命は何にも増して重いはずだ。政治イデオロギーを超えた真の民主主義には普遍的な価値がある。

 連日、ウクライナにロシアからの爆撃の様子が報道される。この間、長引けばそれだけ市民の生命や生活が犠牲になっていることに心が痛む。やがて戦いを終え、戦後になっても、戦争による多くの国民の犠牲に対し、生き残った人や国外に避難した者たちの憎しみは消すことができず、子孫へと引き継がれる。ロシア軍は人々の心まで侵すことはできない。歴史の教訓を無視していることが何より悲劇だ。

 モスクワを去る前夜、夕食後に民族芸能が披露され、メンバーの人たちとも楽しく懇親ができた。「またの日、お会いしましょう」と笑顔メンバーと握手をしたのが懐かしい。

民族芸能のメンバーとの記念写真

 寒い国での温かいもてなし。国際社会は、国境や言葉の違いとは別に「共に生きる社会」なのだ。そして未来を担う子どもたちは尊い。レストランを出ると、暗闇の中に幼い子が佇んでいた。あれから16年、あの子はまさか戦場に行っていないことを祈りたい。

暗闇に佇むロシアの幼い子

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