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映画「ザ・タワー」の感想〜私が見た難民キャンプを思い出して〜

こんにちは!

noteを書くのは実に1年ぶりとなります。

noteにはヨルダンで感じたことを中心に、難民とかアラブとかイスラム教のことについて書きたかったから、一時帰国となった今の状態では、なかなか筆を執れずにいたわけです。

気がつけば、一時帰国といえないくらい長い期間が経ちました。

前職に戻り忙しい日々だけど、ヨルダンに戻りたいという思いはずっと持ち続けながら毎日を過ごしています。

そんな中で、5月1日からの1週間、神戸の元町映画館にて、イスラーム映画祭が開催されていて、早速張り切って行って来ました!

熱が冷めないうちに、パレスチナ難民を題材とした「ザ・タワー」という映画を観た感想について書いていきたいと思います。

すごく…すごく良かったです。一言では表せないくらい、いろんな感情が溢れて来ました。それが伝われば良いなぁ。

これから観る方もいるかもしれないので、途中まではネタバレなしで書いていきたいと思います。


この映画を観れば、パレスチナの歴史が分かる

まずは、あらすじ。

ベイルートのブルジュ・バラジネ難民キャンプに住む11歳のワルディ。彼女は『ナクバ』の日に、大好きな曽祖父シディが大切にしていた鍵を託される。ワルディは、シディが失ってしまった「希望」を見つけようとするが…。
(イスラーム映画祭6 パンフレットより)

77分と、映画にしては短め。

ノルウェー、フランス、スウェーデンによる共同製作。ヨーロッパ映画にしては珍しく、オリジナルの音声言語はアラビア語で作られている。それも、ちゃんとパレスチナ方言だった。

アニメーションでありながら、難民キャンプ内の雰囲気や、光が入らないくらい入り組んだ細い道とか、絡み合った電線とか、狭い空間にひしめきあう家族の様子とか、チャッカマンで火が付くコンロとか・・・細かいところまでが忠実に表現されていた。


ナクバから70年という節目である、2018年に製作された比較的新しい映画だ。

ナクバというのは、アラビア語で「災厄」を意味する。

1948年にイスラエルが建国されたことによって、それまでその地に住んでいたパレスチナ人たちが、故郷を追われることになった5月15日を、ナクバの日と呼んでいる。

映画の中では、そんなナクバの日に、それまで曽祖父が肌身離さず大切に身につけていた故郷の家の鍵を、ひ孫であるワルディに託すところから始まる。

11歳のワルディは、生まれた時からずっと難民キャンプの中で育ってきた。

自分がなぜ難民キャンプで暮らしているのか・・・曽祖父や祖父をはじめとする家族から話を聞くことによって、徐々にパレスチナの歴史が明らかになっていく。


「ザ・タワー」というタイトルに隠された意味

パレスチナ難民の歴史は長い。

ナクバの日から今年で73年。つまり、パレスチナ難民は今や、難民3世、難民4世が存在しており、生まれた時からずっと難民キャンプで暮らしている人々の割合がとめどなく増えていっている。

難民である彼らにとって、難民キャンプ外での居住地を持つことはできない。だから、世代が増えることによって、上へ、上へと建物が増築されていった。

それがもはやタワーのように見える。映画のタイトルはそこから来ている。

舞台となったブルジュ・バラジネ難民キャンプの「ブルジュ」という言葉自体も、アラビア語で「タワー」を意味する。


パレスチナ問題は、過去の話ではない。

ここからはやっと、映画の感想を。もしかしたら、ネタバレになるのかもしれないから、内容を知りたくない人はご注意ください。


今回の舞台の映画となったブルジュ・バラジネ難民キャンプは、レバノンの首都ベイルートから南に約4キロのところにある。

鑑賞後には、アラブ文学者の岡真理さんのトークセッションがあった。

その情報によると、この難民キャンプでは、パレスチナ人である限りは「難民」であるため、水道、電気、ごみ収集などの市民サービスが受けられないという。

さらに、70以上の職種に関して就労制限があるため、子どもたちが専門的な職種に就けない状況がある。頑張って努力したところで、なれない。

ワルディのお姉ちゃんのように、国外にいる知り合いや親戚を頼って、国を出て外国に移住した方が稼げるかもという考え方も珍しくないらしい。


難民キャンプには希望がないのか。

それは本当なのか・・・?


私はヨルダンの難民キャンプで活動していた。

ヨルダンの首都アンマンから車で40分くらい走ったところにあるその難民キャンプでは、水道も電気も通っていたし、ゴミ収集もされていた。

一言でパレスチナ難民キャンプと言っても、場所によって環境はかなり変わるのかもしれない。


その難民キャンプ内の幼稚園には、毎日屈託のない笑顔で通園する元気な子どもたちの姿があった。

難民キャンプを歩くと、見知らぬアジア人である私に声をかけて、家に招待してくれ、ご馳走してくれるパレスチナの人々がいた。

コロナの影響で、本当は2年いるはずだったヨルダンも、たった4ヶ月で日本に帰ってきたので、実際に見れたもの、感じた経験はすごく限られている。

あの、笑顔で接してくれた人たちの過去には、どんな出来事があったんだろうか。

パレスチナへの帰還を望みながら、どのような気持ちで日々を過ごしていたのか。

そんなことがすごく気になった。


難民キャンプでの活動初日、同僚が私を歓迎してご馳走を振る舞ってくれた。

「これはヨルダン料理ではなくて、パレスチナ料理よ」と、自慢気に言っていた彼女の顔を思い出した。


故郷を追われるということは、どれほど辛いものか。

パレスチナ人としてのアイデンティティは、世代間を超えて、どのように受け継がれていっているのか。

次、ヨルダンに戻れることができたら、そんなことを確かめてみたいと思った。





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