映画『レイジングブル』のはなし
一人の男の栄枯盛衰を描いた作品だ。自分中心に物事を考え、思いやりを欠き生きて行くと当然周りにいる大切な人を失い孤独となって行く。主人公の男は緩やかに下降、失速して行く人生で、でもそれは因果応報のような当然の結末で同情の余地はない。
とは言ってもこれはあくまで映画で、ロバートデニーロは好きな俳優で "役" と分かっていながらも、女性に暴力を振るい、弟を見下し、自分勝手な嫌なやつだなと思った。それこそがこの役者のすごいところで、本物のボクサーに見えるのだ。リングの上での表情よりも、周囲の人間に対しての彼の芝居が見どころのようにも思えた。
映像はといえば、凝ったというか何か捻ったような映像表現(撮影も編集も)が多く、ボクシングの迫力、臨場感を追求したのだろうと思った。スローや早回しや細かいカットの連続の中に、スチルカメラのフラッシュを差し込んだり、モンタージュシーケンスのような年代ごとのハイライトシーンをBGMに合わせ流し時間経過を表現したり、リング上がる前の控え室出たあたりからリングに上がるまでをワンカットで見せテンションを上げて行くようなワークなど、色々アイディアを出して撮られ編集されたのだろうと思う。
ノイズばかりで映らないテレビが、主人公のフラストレーションを表現しているかのような、牢獄での強烈なコントラスト表情は見えないが壁を殴る姿なども印象的で、スコセッシさえも映像表現を模索し実行するのであるのならば、自分のような若輩者はもっともっと映像を見て作ってトライアンドエラーを重ねて行く必要があると感じる。
一度だけ涙するシーンがある。そのシーンを見たときは、いやいやなぜ泣くんだと、八百長で負ける選択肢を選んだくせに何をと思った。けれどどこか違和感を感じた。違和感というか作為的な印象があった。このシーンは当別な意味があるよっと言った製作者の意図のような。しかしこれはいいことではないのだろうけど、、、
エンディングを迎え、涙したシーンの意味というか意図がわかった。あの八百長を栄に彼の人生が緩やかに下降し始めたということだ。観ている中では八百長後の2年後も勝ちそれなりに順調のようには見えたがおそらくそれは見落としというか、洞察不足だったようだ。
そしてテロップで色々と書かれるがこれは正直まだ理解していない。
ラスト個人的解釈でいえば、大切な人を失い、社会的名誉も失い、それでもコメディアンのような仕事で生計を立てる彼は、鏡に向かってブツブツと話し始める。それは独白のような自身に言い聞かせる慰めのようなことで、何故このような転げ落ちるような人生になってしまったのかはおそらく気づいていないのだろうというのが印象だ。気づいていてももう時既に遅しなのだが。
出番直前、彼はタキシード姿でシャドウボクシングを始める。もしかしたら彼はまた最盛期のようにリングの上で輝くようになれると自分に対し希望を持っているのかもしれない。しかし、彼が周りに対して敬意を欠きそれまでと同じような態度しか取れないのであればその希望は簡単に消え去るのだろう。並大抵の努力ではその希望は叶うことはないだろうと思う。
失ったものはあまりにも大きい。
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