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主人公の条件(雁/森鴎外)

貧しい家庭で育った美女・お玉は、結婚に失敗し、自殺にも失敗し、高利貸しの妾となる。女中と二人で慎ましく暮らしていたお玉は、家の前を通りかかった大学生・岡田に恋をする。岡田は将来有望なエリート。二人はロミオとジュリエットのように、格差を乗り越えて結ばれる…なんてことはなく、様々な偶然が重なって再会を果たさぬまま、岡田がドイツへ留学して終わる。
この極めて普遍的なラブストーリーを、岡田の友人である平凡な「僕」目線で描いたのがこの作品だ。

目線が「僕」である以上、お玉と岡田の関係性には様々な疑問が残る。
まず、お玉の岡田に対する想いはその言動から明らかだが、岡田がお玉を想っていた根拠はやや薄い。主人公になれない「僕」が、美女に好かれた岡田への憧れから作り上げた妄想という可能性を否定できない。
また、「様々な偶然」は、果たして本当に二人の仲を引き裂いた要因だったのだろうか?そもそも岡田はドイツ留学のための試験や準備で、それどころではなかったはずではないか?

岡田が旅立った後、「僕」は(おそらく岡田の話を出汁にして)お玉に近づく。そして物語は、この一文で締め括られる。

只僕にお玉の情人になる要約の備わっていぬことは論を須たぬから、読者は無用の憶測をせぬが好い。

タイトルの「雁」は、投げた石がたまたま中って死んだ不忍池の雁を、偶然が重なって再会を果たせなかったお玉と岡田の運命に擬えたものだ。
あの日の夕食がサバの味噌煮でなければ「僕」が岡田を散歩に誘うことはなく、さすれば岡田はお玉と結ばれていたはず、というのが「僕」の考えである。もちろん真相は誰にもわからない。
しかし、少なくとも私は最後の一文を読み、友人の身に起きた出来事を自分が招いたささやかな悲劇に仕立てることで悦に浸る「僕」の絵が浮かんだ。
度重なる偶然、運命、他人の不幸。
甘美な響きをまとうそれらの言葉が、平凡な「僕」の取るに足りない日常に色をつけたことは想像に難くない。

私は引きが強い人間らしく、身に降りかかる物語がおそらく人より多い。
不幸な話はネタにしてしまおうと決めている。誰かに笑ってもらえた時、ようやく過去になるような気がするからだ。
昨年、お茶を飲みながら一頻り不幸なネタを差し出した後で、ある友人にこう言われた。
「主人公の素質ありすぎでしょ」
私は、その言葉に救われた。

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