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孤独を飼う(月と散文/又吉直樹)

ピース又吉のオフィシャルコミュニティ(=オンラインサロンのこと?)に掲載されたエッセイをまとめた新作。
私は又吉の『東京百景』が本当に大好きで、文庫本を買っては人にあげ、買っては人にあげ、というのを繰り返しているほどだが、今作は『東京百景』に漂うエモさはなく、コロナ禍の乾いた日々が鋭い視点で綴られている印象だった。
ニューヨークからロサンゼルスに活動拠点を移したらしい相方・綾部も二度登場し、普通に連絡取ってるんだな、とほっこりした。

印象に残ったのは「家で飼えない孤独」「全然、乾いてないやん」の2作。
「家で飼えない孤独」は、大阪の狭い住居で5人で暮らしていた子供時代、「孤独は贅沢なものだった」という話。一人の時間を作るために、又吉少年は夜遅くまで公園で過ごしたりしていた。

あれだけ孤独に憧れていた癖に、真夜中の公園に一人でいると不安になることがあった。それでも平気な顔をして家に帰る。すると、家族の気配を感じて安心する自分に気付く。
あの頃、僕は家で飼えない孤独を公園に通い、少しずつ育てた。一人では到底、両親の強さ(それは弱さを伴った時間を内包したものだろうけれど)に太刀打ちできなかった。家族の存在に触れていると安心してしまい、やる気が削がれるという面倒な性分も自覚している。
十八歳で地元を離れ東京で暮らそうと考えたのは、通いで飼っていた孤独と向き合う必要があったからだ。

これを読んで、父は単身赴任で不在、姉が出て行ってからはフルタイムで働く母と二人で暮らしていた私にとって、家こそが孤独な場所だったな、と思い返した。
勉強やネットや読書など、やりたいこともやらなきゃいけないこともあったため、孤独を孤独として捉えたことがなく、その延長線のような感じでもう15年も一人で生活している。
孤独と向き合うとは、どういうことだろうか。
逆説的だが、私はあらためて孤独ではない生活を体験し比較することでしか、それは叶わないような気がした。

「全然、乾いてないやん」は、コロナ禍で中止になった舞台から、創作についての想いが綴られた作品。

自分が見た風景や出来事を忠実に再現することも簡単なことではないのだが、その風景や出来事を自分がどのように感じたかという感覚を織り込んでいくことも、創作には必要だと思っている。現実に体験した出来事を文章化するにしても、実際に存在した人物が登場人物として必要ないと感じたら、そんな人はいなかったことにして、代わりに必要なことをより有効に伝えられる人物を登場させる。
そうなるとエッセイではなく創作の領域に入るが、その方がより本当のことを抽出できると自分は考えている。「フィクションなんて、ただの嘘だろ」という人には、このように意義を唱えたい。実話と呼ばれる類のものも、結局は誰かの視点によるものなのだから完全な事実とは言えない。殴られた方が語る物語と、殴った方が語る物語では別物になってしまうだろう。

ちょうど最近、むかし自分が書いたノンフィクション小説の感想を友人にもらい、あれをフィクションに昇華するために何をどう変えればいいか、について考えていた。
サブスクによってエンタメが溢れ、世の中が「事実がいちばん面白い」というムードになりつつある昨今だが、本当に面白い実話は、どこか味付けがされているのだろうな、と思う。
とてもタイムリーで響いた一節だった。


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