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日記:20240104〜吉田知子『無明長夜』〜

吉田知子『無明長夜』
 デビュー作の短編集。自分が読んだ版は後に再編集されたもの。いずれにせよ最初期の作品のため、代表作『お供え』あたりとはだいぶ手触りを異にする作品が多い。
 それでも『終わりのない夜』『わたしの恋の物語』は不眠/嗜眠を題材に、夢と現実が入り混じり語り手自身も判断できなくなる混濁した世界を描いているし、表題作『無明長夜』のラストは語り手の意識が横滑りしていく不気味さがすでに表れている。この現実と妄想の区別がつかない怪しさ、凶々しさこそ自分が吉田知子作品に最も魅力を感じる点。

【ネタバレの感想を含みます】

「豊原」
 満州での生活を、特異な母親との愛憎を中心に描いた作品。巻中で最もリアリズム的で、私小説的な色合いも強い。母親の夫への執着の強さと、子どもである主人公への無関心さが印象的。

髪の毛を引っ張ったり、まぶたを押し開けたりしても、じっとしていた。僕には死ということの意味はわからなかったが、何かとりかえしのつかぬ恐ろしいことだという気はした。それがみんな僕のせいなのだった。

吉田知子「豊原」(『無明長夜』)

僕は低い声で泣きだし、それから母の注意をひくためにありったけの声で泣きわめき、疲れてしまって、後は嗄れたとぎれとぎれの泣き声になった。あのときの、今日でおしまいなのだ、今度こそ本当なのだ、という感じと、自動車を見失ったときの感じは全く同じだった。それが全部僕のせいなのだ、ということも。

吉田知子「豊原」(『無明長夜』)

 陰鬱な作品ながら、鎌田という友人との交流がこの作者には珍しく、わずかな救いになっている。

「引揚げたって十二人も住むところなんかあるものか。ここにいた方がよっぽどいいのになあ。おやじが一人で決めちまったんだ」と蒲田は不平を言っていたが、案外、僕を慰めるためにそんなことを言ったのかも知れない。軽はずみのくせに、よく人の気持ちに気がつく男だった。

吉田知子「豊原」(『無明長夜』)


「終わりのない夜」
 闇の中をさまよい歩き続ける無限的な作品。不眠のメタファーのようにも感じた。「オニの背中館」など、我妻俊樹の不条理怪談にも通じるような異様な言語センスが強烈。
 自分自身への無関心さや、主体が奪われるような離人症的な感覚といった、著者の作品に繰り返し表れるモチーフが、かなりストレートに描かれている。

「もしかすると、あなたは私の探している人かも知れないわ。あなたは私かも知れない」
 そんなことはどうもよかった。立っている私のふくらはぎが気味の悪いほど痙攣している。私はとにかく休みたかった。

吉田知子「終わりのない夜」(『無明長夜』)

それはずっと、はてしない昔より私の望んでいた姿ではないか。どこから見ても完璧に醜くなりたいと私は常に心の隅で強く希んでいたのではなかったか。ただ、それに気が付かなかっただけなのだ。彼女こそ私の本質なのだ。

吉田知子「終わりのない夜」(『無明長夜』)


「生きものたち」

 動物の名を冠した掌編シリーズ。作者本来の作風とは異なるのかも知れないけど、「奇妙な味」のショートショートとしてかなりの出来栄え。
 「鷹」
  
ちょっとBL風な味わいさえある。「常寒山」ではホモフォビアックなイメージがあったので意外だった。
 「犬」
  
見すぼらしい野良犬に自己を投影し、犬にトランスフォームすることを暗示する主題は、後の作品「犬と楽しく暮らそう」などにも通じる。
 「烏」
  
神経を病んだ妻を抱えた中年夫婦の悲劇。終わり方が衝撃的だけど、ちょっと作り物めいて感じる。妻の不安のきっかけとなった黒い服の老婆たちの描写が悪夢めいていて印象に残る。
 「ライオン」
  
これがいちばん好きかも。少年の嗜虐性と惨劇を突き放した筆致で描いていて、とても淫靡。
 「猫」
  
これも良い。「奇妙な味」のお手本みたいな作品。

あ、頭から食べられる、と少年は思い、身を縮める。すると兄は、そうっと、擽ったくなるくらい、そうっと少年の耳を唇で挟むのだった。それまで走っていたので兄の息は弾んでいる。少年の頬やこめかみに兄の息が激しくぶつかり、少年は笑い出す。少年は一度ぐらいは、強く噛んでもらいたかったのだが、兄は決してそうはしなかった。

吉田知子「生きものたち ー鷹ー 」(『無明長夜』)


「わたしの恋の物語」
 卑俗な生活や性愛が題材で、あまり肌に合わなかった。どちらかというと、「日常的隣人」などのユーモアを含んだタイプの作品に近いのかもしれない。すべてがまどろみに溶け込んでいくような、夢に誘われるまま現実を投げやりに放り出すような結末はよかった。


「無明長夜」

 ですます調で語られる、どこか追われるような緊迫感と暗い熱を感じる作品。お寺で見かけた「かれ」の立ち振る舞いに、自分には欠けている「確固とした不動のもの」を見つけ、それに囚われ続けてきた主人公の独白を通じて、他人が当たり前にできていることができないと感じる劣等感や世間との断絶、孤独が湿り気のある粘っこい文体で語られる。
 前半に登場する松の木の根元で地面に頭を押し付ける狂女が、結末間際で語り手自身の姿に重なる構造が見事。
 この前後はとりわけ何が起きたのか、何が起きなかったのか虚実は境を失い、時系列も錯綜しながらも語り口には得体の知れない迫力がある。「脳天壊了」「艮」などの作品とも通底するギラついた恐ろしさに魅せられる。
 また、唯一の友であった玉枝が癲癇の発作を起こした際に二度に渡って見殺しにしたり、車に撥ねられた女を傍観していた自分が笑顔を浮かべていたことに気づくあたりには、本書にも収録されている「静かな夏」と同じ薄気味悪さ、底意地の悪さを感じる。
 やや冗長に感じないでもないけれど、芥川賞受賞に恥じない傑作。


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