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葵の葉 ~ 神婚伝説の神話を今に生きる私たち ~


葵祭に欠かせない葵の葉
葵、フタバアオイの葉はハートの形
なんともいえない控えめな可愛さ
日陰に生え、たっぷりの水を好む
そんな葵の葉が意味するのは、神様と出逢うこと


上賀茂神社の御神紋である葵について、こう書かれています。

上賀茂神社は、社殿のそこかしこに葵(二葉葵)の文様が刻まれた金具で飾られています。また北東の杜には二葉葵が群生し、訪れる人々を迎えます。
葵は古く「あふひ」と読み、「ひ」とは「神霊」神を意味し、葵とは「神と逢うこと」であり、また「逢う日」でもあるのです。御祭神降臨の際に「葵」を飾り祭りをせよとの御神託があったことから、御神紋となり社殿を飾り、神と人とを結ぶ草として古来大切に守られてきた植物でもあります。

上賀茂神社のサイトより


さて、私たちはどの様にして神様と出逢うことができるのでしょうか?

そこで、上賀茂神社に伝わる御神話を紐解いてみましょう。
上賀茂神社の御祭神である加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)の誕生と後の降臨についての神話です。
別雷神とは雷神ではなく、「雷を別けるほどに強い力を持つ神」という意です。
雷を別けるとは一体どういう意味でしょうか? 
別けるであって分けるではありません。

神話を読んでみてください。
とても短いのと綺麗な挿絵付きでまるで大人の絵本の様です。
時間がない人のため一言で言うと、
この神話は、神が丹塗(にぬり)の矢に姿を変えて女性に近づくという神婚の伝説です。


丹塗矢の正体は、火雷神 (ほのいかずちのかみ)で、赤い閃光を発する雷神。
神婚において丹塗矢は女性の陰部をつく形態をとるのですが、
ここで言う女性とは、一般的な性別としての女性ではなく、
男性でも女性でも誰もが自分に対して、もしくは世界に対して、ここがダメなんだなぁ、、と捉えているネガティブな部分(陰部)のことです。
その部分と火の神様である雷神が結ばれるとはどういうことでしょうか?
まず、矢でその部分を突かれるということ。
つまり、気付く又は気付かされる。
気付いたことによって、それまで見えていなかった焦点が現れました。
しかしまだその点がそこまで重要なものであることにまでは気がいきません。
神話のなかでは、
「父と思う神に盃をすすましめよ」と盃を受け取った瞬間、雷鳴と共に天へと昇ってしまいます。
陰部と赤い閃光が結ばれて生まれた御子の父は天の神。
逢いたいと乞い願うのは、陰部と結び合わさった情熱の火。
逢うためのご信託は
「吾れに逢はんとは、天羽衣・天羽裳を造り、火を炬き鉾を捧げ、又走馬を餝り、奥山の賢木を採りて阿札に立て、種々の綵色を垂で、また葵楓の蔓を造り、厳しく餝りて吾をまたば来む」
つまり陰部に気付きの火が灯るだけでなく、そのままで陽なる炎として存在すること。
陰であり、陽である
陽であり、陰である
この境地。


これを書いている只今、外では雷が鳴っています。
神との同期(シンクロ)の知らせなのでしょうか。驚
おぉ、凄まじき雷光が。まさしく閃光。
雹(ひょう)も降ってきました。

雷鳴のドーン轟きって、胎に響きて気持ちがいい


魂に火をつけるきっかけとなる出来事。
もちろん、その出来事をもたらしてくれる人ありきです。
その人は弱くて強い。
その姿を通して、陰に陽にあなたをゆさぶってくる。
まるであなたを裏表にして、対にしたかのような存在。
限りなく似ていて、限りなく似ていない。
そこにあるのは、絶妙なるゆらぎのもとに釣り合っている天秤。

丹塗矢の的こそが、あなたの魂。
魂に火をつけるのは、生優しいものじゃない。
なぜなら過去のフラッシュ(閃光)バックをもう一度体験することになるから。
けれどあなたはそれを望んでいる。
そして実際 既に起こっている。
人と出来事を変えて。

なぜ?
過去に置き去りにした自分を救い出したいから。
過去に置き去りにされた自分が逢いに来ているから。

眠っている力を起こしたいという心願から全ては生まれてきているのだ。
だからこそ、一連の出来事を経験しているのだ。

時を経て、あなたは賢くなった。
今のあなたは明晰さをもって、走馬灯のように思い出すことができる。
あの場面。
今のあなたなら、どう出る?
どう出たい?
今なら反現実を生み出せる。

未来も同時に逢いにきている。
そうありたいあなた。
魂の力を発揮するのは生半可じゃない。
総合的でありつつ、要所要所においては相反する力が必要とされるから。
だからこその、雷を別けるほどに強い力を持つ神、別雷大神なのだ。
知の力。
起こっている出来事の意味するところは、ひとつではないのだ。
ふたつの重要課題。
そう、別々に取り扱うこと。
過去と未来、ひとつづつ。
だから大丈夫。
あなたには出来る。
その瞬間に求められいるものに忠実に応えるのだ。

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私、噴火レベルの爆発をしたと言ったでしょう。
タイミングだったとも言えるでしょう。
潮が満ちたのです。
きっとそれは、心に抱き続けた思いに拠るのだと思います。
良き人生を歩んでほしいという思い。
時折見せる軌道から外れた態度と言い訳。
様々な事が入り混じりつつ展開していくなか、
「今じゃない」と私の内なる感覚から来る声が囁き続けていたのですが、
度を越したその時は、「今だ」でした。
あまりにも瞬間的過ぎて、「今だ」の感覚と閃光はほぼ同時でしたが。
けれども逆から言うと、それまでの「今じゃない」という感覚を守っていたからこそ、その時が掴めたのだと思います。
轟きそのものでした。

やってしまったという思いは後になっても生まれませんでした。
かといって、よくやったとも思っていません。
ただそうあったのです。

伝わっていますよね、違い。
相手のことを思ってこその怒りか、勝ち負けの怒りか。
相手のことを思っての怒りは、同時に自分自身を尊重したものでもあります。
相手の未来を視野に入れたものなのか、自分の思い通りになっていない事への不満からなのか。
表面的に見える態度としては似てるんです。
でも心の中身は全く異なる。
この違いが、実のところ、違いを生み出してゆく。
そして、この見えない中身が人生を形作ってゆく素となる。


あそこまでの挑発的な態度がなければ、
私はそこまで強い力を出すことができなかったように思うのです。
私の底に眠る力を引き出すために、相手がそうしてくれたとしか言いようがないのです。
相手は天からの使いだったのです。
挑発は、天の仕掛けだったのです。
丹塗矢の矢。
的のど真ん中を得ていたのです。
心願です。


私たちの殆どは、天に属する類の力を人生のある時点において封印するのでしょう。
身近に接する人からなんらかの形で否定されたりなどして。
また使う術を心得ておらず、人生の早い段階において上手く使えないこととも関係しているのでしょう。

それ以降、真逆方向の力を発達させ、人生において波立つ側面を乗り越えていきます。
内面という見えない世界においては、負を被りながらも。
負を被るのは、使い方が表面的だからです。
相手と自分を分離した存在であるという前提のもとに使っているからです。
けれどもこの表面的な力である素質が、実は根底に眠る魂の力の切っても切り離すことのできない強力なペアとなるのです。

この素質は、ここぞという時には絶対に効かない。
ましてや自分の大切な人なら尚更。
以心伝心。
伝わるのはその奥にあるもの。

負を取り返すために魂の力を発揮するのではなく、
それこそが魂の抱負、アスピレーションなのです。
相手は自分であるという一体意識(ひとつの心)のもと、負から培ってきた素質をそこに掛け合わすのです。
それは相手からすると、照らし出される行為となるのです。
相手が求めていたものを。


葵の葉
神様と出逢い、結ばれるためのシンボル。
日陰に生息し、たっぷりの水を好む。
陰を見よ
そこにある気持ちを感じろ

私たちのもうひとつの姿は、まさしくこの霊(スピリット)で、
結ばれるため、結ぶために出来事が生じる。


私の都合や立場、状態や状況は一切考慮することなしに、
相手として相手の心(ハートとしての心)を感じた時、
それまでの表現や言い方だと、
根っこにはまだ届いていない、足りていないと、薄々感じていたものがありました。
言い方と書いたけれど、言い方というハウツーの領域ではなく、心のあり様としての物足りなさです。
それまでもかなりいい関係になっていたと思います。
けれど一人目で出来なかったことが二人目で出来る様になったことは、
私自身にとっては母親としての成長ではあっても、同時に私の中に申し訳ない気持ちを産み続けていました。
最初の子として生まれたから、他の兄弟と性格が違うからで片付けてしまいたくない深奥に澱む澱のようなものでした。
なぜなら本人にとって兄弟は一才関係なく、私はこの世で唯一の母親なのですから。

もちろん、一人目と比べて二人目がもらえなかったものもあるでしょう。
だからこその、自分が自分であることの主観や感覚がカギとなってくるのです。

私は素直な心から謝ったのです。
素直に謝られることによって受ける相手側の恩恵は計り知れないものがあります。
自分は間違っていなかったと気付けることは、悲しみからの解放を意味します。
その日から態度が一変しました。

その後全く別なる会話から答え返すべき機会にも恵まれました。
その時は新たな私として降臨したのです。
澄んだ真っ直ぐなものを差し出しました。
相手のタイミングと相手の心に即して。
私という個人はそこにはなく、いるのは相手である私でした。

水疱が弾けて光ったのがはっきりと見えました。
感じ取れました。
その日から全く予期も期待もしていなかった嬉しい知らせが届くようになったのです。


雨が止み、今 青空が顔を出してきました。
雷雨の後の清々しい空気と地上の生気
遍満する精気

現代における禊ぎとは、封印した力と再び結ばれることなのでしょう。
知ることと感じることの結晶として。
今年、令和6年の葵祭の斎王代のお清めは下鴨神社( 加茂御祖神社) の聖水、御手洗川だったようですね。
ほんの二週間前のことです。
行かれましたか?

心願成就のご利益があると言われる下鴨神社は、
加茂別雷大神の母である玉依比売とその父であり、八咫烏の化身とされている加茂建角身命が御祭神。
心願とは心に秘めた願い。
外の世界に対して秘めているというよりも、自分自身でも意識できていない秘めたる願い。
だからこそ、周りの世界、特に大切な近しい人がそれに気づかせるために現象を起こしてくる。
もちろんそれは、その人にとっての心願であるから縁起として生まれてくる。
包みつつ包まれ
包まれ包みつつ

雷鳴
加茂川
清め
丹塗矢
不思議な力

降臨

起こる出来事の意味。
意を味わうと書いて、意味。
意とは心が奏でる音。
日常に生じる心ゆらぐ出来事を、感じ入ることを心がけてみてください。
意味が顔を出してきます。
心の世界に時間の針はなく、全てが圧縮された今として目の前に姿を表します。

神様に出逢うとは、訪れたその瞬間に自分としての時を刻むこと。
永遠なる時刻を。

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今朝、御手洗池から湧き出る水泡から、みたらし団子が生まれたこと教えて頂いたのを思い出しました。
覚えておられますか?
ここにきて繋がるなんて、人生って本当に面白く興味深い造りをしていますよね。

御手洗池の水泡
それは、みたらし団子 笑


あれから月日が経ちました。
現実は行ったり来たりの繰り返しだったかもしれませんが、
私たちは確実に心という根が張っている土の中を、時間と手間ひまかけて耕し栄養を与え整えてきました。
これは他の何とも変え難いことです。


2枚のカード。
No. 5 意向( intent )とNo. 16. 大いなる気づき(realization)
上賀茂神社(加茂別雷神社)と下鴨神社(加茂御祖神社)。
「意向」は「心願」であり、「大いなる気づき」は「成就」を表しています。

No. 5 意向( intent ).     No. 16. 大いなる気づき(realization)


起こる出来事の意味。
意を味わうと書いて、意味。
意とは心が奏でる音。
日常に生じる心ゆらぐ出来事を、感じ入ることを心がけてみてください。
意味が顔を出してきます。
心の世界に時計の針はなく、全てが圧縮された形の今として目の前に現れ出てきます。

水泡の正体は、とっても心に美味しい光の粒なのだから

サポートしていただけたら、こんなに嬉しいことはありません ♡