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出かけてきたよ⑰(90年後のお礼参り③)

お多賀さんへのお礼参りは、家族史を強く意識するものとなった。
私の父が語った、父方の親族の軌跡の一部をここに記しておきたい。

父方の祖父母は、遠州に縁があった。

祖父の親族は、教育関係に縁ある人間が多い。
曽祖父は、小学校教諭。その小学校に、祖父は通っていた。

祖父は、小学生の頃から塾通いをしていた。
それは「勉強が楽しい」という祖父への、取り計らいだったとか。
祖父は、塾に行く前、曾祖母から殻付き落花生をいつも持たせてもらった。
それを道中食べながら、1人自転車で天竜川を渡ったそうだ。

高齢者となっても、祖父の傍らにはいつも、殻付き落花生のお皿があった。
いくつになっても、自分の母の愛を落花生に感じるからだったのか。
(と、私は思っていた。父曰く、祖父は「落花生は頭が冴えるから」と
 言う理由で常食してたことが、今回判明)

何不自由ない生活をし、神童と言われた祖父。
思春期に人生初の大きな挫折を味わう。肺病に罹ってしまったのだ。
療養のため、家族と離れ、気候の佳い四国に暮らすことになる。

「自分は一生で一番元気だとされる時期に、死ぬかもしれない、
人に伝染すかもしれない病になるなんて。1人で色んな事考えたさ。」

何事にも潔く、思慮深く、思いやり溢れた祖父の人格形成には、
この経験が大きく影響したと思われる。

少年だった祖父は知らなかったが、
後にこの四国での人脈の豊かさが、祖父の人生に貴重なものとなる。
その後全快し、大学を卒業。内務省へ入省した。

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祖母の親族は、遠州のある土地の神社・森・池を護り続けた一族だった。
そして、曽祖父母は外地で事業をしていた。

若かりし頃の祖母の写真。
楚々とした椿が花開いたような、美しい容貌の女性だ。
小柄だったため、周りの人間がつい手助けをしがちだったという。
対して本人は、才長けて、自立心が強く、磊落な人間だった。

祖母は外地で育ったが、進学のため東京へ。
そして在学中に、祖父と見合い。祖母の卒業後、遠州で祝言を挙げた。
非常に盛大な宴だったそうだ。
それは、曽祖父母が起こした事業の後継者として、
祖父をお披露目する機会でもあったからなのだろう。

祖父から、結婚前の祖母に宛てた美文調の手紙が何通もあったそうだ。
(その手紙は、祖母の棺に入れたので、現存していない。)
真面目一本な祖父が、可憐な美女なのに豪胆である祖母に
すっかり”ギャップ萌え”したことがうかがえる、内容だったとか。

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ここからの祖父母の動向は、目まぐるしいものとなる。
祖父母の軌跡に関する父の記憶にあいまいな部分が多いこと、
孫である私は、生前の祖父から戦後のことばかり話を聞いていたため、
戦前・戦中のことをよく知らないがゆえに、不確かな部分がある。
それでも、このまま記すことにする。

祖父母の新婚生活は、名古屋でスタートした。
祖父は陸軍士官学校の幹部候補生として、
中国の武漢に、砲兵として派遣されることになる。
その出征の前か後に、祖母は「お多賀さん」へ
祖父の命の無事を祈願するため、参拝したものと思われる。
なぜ、名古屋から離れた「お多賀さん」を、
わざわざ詣でたのかは不明だ。
今よりもはるかに、交通の便も良くなかっただろうに。

祖父が武漢にいたある日。
「造幣局へ出頭せよ」という指令が、届く。
突然のことに、祖父は戸惑い驚いたが、指令は指令。
その書面を通行証に、長江を旅して、日本に無事帰国する。

今に至っても、誰がどんな取り計らいで、
中国にいた祖父を引き戻すかのような指令を出したか、謎である。
しかし、ひとつ、確かなことがある。
この謎の指令が無ければ、高い確率で祖父は生きて帰国できなかったろう。
祖父が所属した部隊の大半の方は、中国で亡くなってしまっている。
そして、父と私は、この世に存在していなかっただろう。

世界大戦がはじまった。東京で生まれた後、父は外地で暮らした。
その時代、祖父は一人、鹿児島の駐屯地にいた。

敗戦。祖母と父達は外地から引き揚げた。
祖母は、祖父に再会した時、泣きながら謝ったそうだ。
外地で手広くやっていた事業は、今や祖母達の手に無かった。
祖父は、その事業の跡取りとして入り婿してもらったのに、申し訳ないと。
その言葉に、祖父は珍しく、語気を強くして言ったそうだ。
「何をいっとるか。命に勝る財産なぞ無い。俺たちは生き延びたんだぞ。
 今以外を、金輪際見るな。」 

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父と私が考えたこと。
ある意味、祖父母にとって、先の大戦であらゆるものを失ったことは、
その後にプラスになったのだろうと。

祖父は、非常に聡明で、素晴らしい人間だったと思う。
しかし、いわゆる「商才」は持ち合わせていないし、
機を読んで、相手と駆け引きすることに長けてるとは、到底思えない。
外地での事業を、そんな祖父が継いでいたら、どうなっていたのだろう。

祖母の家族の事業が外地に消えたお蔭で、
祖父は、自らを最大限発揮して、日本復興に携われた。

九州、北陸、四国、関西の道路建設・整備に祖父は尽力を注いだ。
(それに伴い、父は何度も引っ越しを経験している)
偶然だが、それらの地には、祖父は縁のある人間がいた。
その人たちと協力することにより、
あらゆることを成し遂げることができたそうだ。

祖父は亡くなる直前まで、現役で活躍した。
引退後は、辞書とメモ、筆記用具、本、新聞二紙。
そして、落花生の皿が載ったテーブルについて、
のんびりとした日々を過ごすようになる。

祖父にたずねたことがある。「自分の人生の一番の喜びは、何?」と。
「そりゃ、お前たち孫やひ孫にまで、出会えたことさ。有難いもんだ。」
大変な時代を生きたが、祖父はあらゆることをやり遂げることができた。
人として、自分の特性を生かして、社会に貢献できたことは
大きな喜びだったことだろう。
でも、一番の喜びといえば、そんな身近なことだったのか。

祖父の言葉を思い出す。
「必要なことは、全て。各自与えられている」
自らが立つ場所、持つもの、人間関係に感謝し、
それ以上のもの・それ以下のものを望まない。
与えられた機会、経験をすべくようになっているのだから、
そこで最大限のパフォーマンスを心掛け、感謝するだけでいいのだと。
「お天道様が見ている」
全ては大いなるお取り計らいのもと。
それに善悪をつけず、光の下で堂々と生きる事を、祖父は実践していた。

ある時祖父に、
「戦争を経験しないといけない時期に人生を送ることになって、
 不公平だと思ったことはないか。」とたずねたことがある。
(孫世代の私達は、経験していないので)
「不公平だと思ったことないな。
今の先の瞬間がわからないのは、どのような世の中でも一緒だから。」

と、淡々と語ったことを思い出す。
時代が自分に望むことをしつつも、それに翻弄されない。
生きる事にも主体的で柔軟だった祖父は、
自分の外に、自らの人生を明け渡すことがなかったのだろう。

いつも、”お蔭様”で生きていた祖父を、尊敬していた。
そんな祖父から、会えて嬉しかったと言われたことが、私は何より嬉しい。
私も、祖父に会えて嬉しかったから。

お多賀さん、私達に命をありがとう。

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