普通のフツウによるふつーのための
『普通』という言葉が大嫌いだけど、ふつーであることに憧れる。
フツウパラドックスを抱えて生きる私は、自分のことを「ふつ病」だと思っている。
そもそも私が普通と決別してしまったのは幼稚園の頃。
みんなが鬼ごっこやかくれんぼをしている中、私は絵を描きたかったし、おままごとがしたかった。
先生が「好きなことして遊んでいいよ」と言うので、みんなが外へ向かおうが友達に誘われようが私は画用紙の元へ走った。
おままごとをしている時は参加した。どろだんご遊びが流行った時は混ざったけれど、あとはずっと絵を描いていたような気がする。あまり記憶にない幼少期から私に協調性というものは皆無だった。
先生に「どうしてMAGAOちゃんはみんなと一緒に遊ばないの?」と聞かれたことがある。正直質問の意味がよくわからなかった。先生は「好きなことをして遊んでいい」と言ったのに。
その裏にある社会的な意義など当時の私に理解できるはずもなく、大好きな先生の言葉に罪悪感を感じたことは覚えている。
そもそも「普通」ってなんだろう。
学校という社会の縮図に閉じ込められてしまえば、余計にわからなくなった。流行りのアイドルや芸能人の魅力がわからなかったし、同級生の噂話も嫌いだった。彼氏ができたAちゃん、片思いをしているBちゃん、モテるのはサッカーが上手なCくん。
周りと足並みをそろえて、常識という枠に人を入れ込んで、それをこなせることが普通なのかと思っていた。そこに入り込める人は普通でいられて、入り込めない人は特別なのかもしれない。でも私は特別になれていないし、普通にもなれなかった。
普通でも特別でもない私は透明人間なのかもしれない。
それでも行き交う人々はこんな私を認識するし、この色に対する嫌悪も好意も感じ取ることができる。
こんなにも命にまみれた世界で、どこぞのビックバンで誕生したかも知れない生命体に存在そのものを否定されるのは気にくわない。
そういう輩を見ると、貴様はブラックホールから蘇ってきたのか、と思っていたりする。
でも、そんなブラックホールの残骸に飲み込まれそうな日もある。
得体の知れない生命の『普通』の中に潜り込めれば、私という星屑を拾い上げてくれるのかしら。異文化交流を楽しんで、好ましく傍に置いてほしいと思うのだけど、結局誰かの『普通』と私の『普通』が一致することなどありえない。理解し得ない孤独を抱いて、また宇宙の中に放り込まれた時に猛烈な『普通』への憧れを感じる。
愛してほしい貴方の『普通』に潜り込んでみたかった。
『普通』でいたいと願うのは、寂しい私をわかってほしいから。
『特別』でいたいと願うのは、こんな私を認めてほしいから。
全てが満たされない私への欲求不満でしかないのだけど。
毎日泣きわめいて生きていたけど、案外それは自分だけではないことにも気付いた。誰もがみんな、満たされない何かを抱えて足掻いて苦しんでいる。
いい気味だ、わたしも、あなたも。
だれもが持っている『特別』を知って、受け入れあってはじめて、私達は「ふつー」であることに気付くのかもしれない。
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