正義が暴走する人々 -あいつをどうにか叩き潰したいと思う人たち-

SNSをダラダラとかれこれ10年続けている。
もっぱらTwitterであるが、「つぶやく」ツールとして使っているため、リプライ(他者とのやり取り)や引用リツイート(他者のツイートを引用した上で自分のツイートもできる)を使うことはごく少ない。
中には、上記の機能を使い議論や意見交換を行う人々も居るようだが、私はそれを目的としないので、使って通常のリツイート程度である。
誰に宛てるでもなく思ったこと・考えついたことの記録として利用しており、「いいね」や「リツイート」がつくこともほぼなく、居るか居ないか分からない弱小アカウントである。

さて、そんな気ままなTwitterライフを送る中、軽い気持ちであることについて思ったことをツイートした内容に、引用リツイートがついた。

関わったことのない赤の他人から、です・ます調ですらなく、荒々しく罵倒とも取れる文章の内容に、

何言ってんだコイツ?



となった。どうやらそのアカウントは、私のツイートした内容とは反対の立場をとる人らしく、私にしたのと同様に、荒削りな引用リツイートやリプライを他にも繰り返しているようだった。

荒らし行為に近い。
関わるだけ無駄と思い、引用されている自分のツイートにツリーを繋げる形で補足をし、そのアカウントはブロックした。
数時間後気になって確認してみると、引用リツイートは消えており、そのアカウントは誰に宛てるでもなく釈明、言い訳とも取れるようなツイートをしていた。

そのツイートに「いいね」が1件。
そのいいねしたアカウントを見てみると、
今度は私のツイートをスクリーンショットして自分の意見をツラツラと書いている。
ブロックされるのが怖くて、引用元の私に通知が行く(かもしれない)引用リツイートさえもできないのであろうか?陰湿さと少々の気味の悪さを感じた。
とりあえずブロック。

件の私のツイートは、普段は関わらない分野だったため、「地雷」的な内容だったのであろうか?と、確認のためキーワードになるものをTwitterの検索にかけてみた。

ああ、地雷だわ。コレ。



現在進行形で賛否の分かれている問題であったが、賛成派にはいわゆる「マニア」の多いものであったため、私のような一般人が反対派になりやすいようであった。
どうやら、私に引用リツイートをつけたアカウントを含む賛成派の数アカウントが、反対派の意見にしつこく絡んでいるようだ。
そして、賛成派の中でもその数アカウントは煙たがられているようだった。(それでもその賛成派からも空リプで私は批判されていたが)
1番怖かったのは、キーワードで検索したところで数アカウントしか継続的に扱っていない過疎った話題であるにも関わらず、攻撃的な賛成派が目についたところだ。反対派に噛み付く賛成派、という構図が多い。その逆はほぼ観測されなかった。

…このような構図、とても見覚えがある。
最近興味のある話題がとある社会問題なのだが、私はその社会問題の解決策とされているものに懐疑的・批判的な立場である。
その懐疑的・批判的な立場の意見に対して、解決策に賛成する立場の人たちは反論をするのだが、

まあ、口汚い。


びっくりするほど口汚い。
幽霊もびっくり。びっくりするほどユートピア。
そしてとても感情的。
賛成する立場の人たちからすると、私を含む批判的立場の人は、「人でなし」なのであろう。
人でなし・悪者(と思われるもの)に対峙した時、人はどうなるか。それが「罵倒」「誹謗中傷」をも辞さない抗議である。

しかし、その社会問題も、前述の地雷的話題も、今だに賛否が分かれ、検討中であるものだ。どちらが正しい、や、合意形成されたものはまだない。
そこにあるのは、「自分はこちらが正しいと思う」の個人の意見に過ぎない。また、検討が終わったとしてもそれを批判することは自由である。
その中で、「自分の思う正義」と対峙した反対意見に対して、必要以上に攻撃的になれるのはなぜなのか?
その裏には、「自分の正しいと思うことこそが絶対の正義である」という考えがあるのではないだろうか。

話は変わるが、教育の現場でもディベートが取り入れられて随分経った。だが、ディベート流行りにより、自分と異なる意見を「ねじ伏せ」「服従させる」ことのみが、議論であると認識されているのでは?と思うことがある。
議論においては「賛成と反対どちらを採るか」だけで済むテーマもあるが、現実の多くは折衷案・妥協案を探ることの方が多い。結果的には「引き分け」になることもある。
だが、ディベートこそが議論であると信じていると、勝ち負けだけになってしまうのだ。
また、本来のディベートであれば、お互いの意見を聞き・そこへの疑問や反論を重ねることで論理の素晴らしさで勝ち負けとなる、とあくまでも私は認識しているのだが、「強い言葉で圧をかけ」相手をねじ伏せ降伏させるものと認識している層がいるのではないか?
例えば、有名な「きのこたけのこ論争」でなら、「きのこが好きな人はビスケットが好きなだけで、ビスケット好きは馬鹿である。馬鹿の意見に合わせていては社会は破綻する。きのこ派は社会の敵である。黙殺せよ。」くらいの訳のわからなさ。
(それとも、ディベートとは本来そうであり私の認識が間違っているのか)

はてさて、「自分こそが絶対の正義」と「議論は相手をねじ伏せ勝ち負けを決めるもの」、の2つが合体したのが、これまで私の遭遇してきた人たちなのではないか?
それらの人たちにとっての自分と異なる意見は「倒さねばならない絶対的な悪」である。
悪はなんとしてでも倒さねばならない。
「説得など必要ない、潰してしまえ」とでも言いそうな雰囲気もある。
それか、「無知ゆえに悪となってしまった者どもを、正しい方向に導いてあげるために、教えてあげなければならない」という雰囲気も一部感じられるが。とても上から目線である。

このご時世、某独裁国家が批判されるのを目にするが、日本の人々は他国を批判している場合ではないのでは?と薄ら寒くもなる。
意見の勝ち負けでしか、取りまとめのできない人たち。勝ち負けのつけかたも、どちらが相手意見を力でねじ伏せるかになっている人たち。
…力の強い者だけが優遇され、その他の「負けた者」は無視される社会?

そこまでは言い過ぎかもしれないが、「勝つ」という結果こそが全てであり勝ち方は問わない、という価値観が蔓延しているようにも思う。

今だに賛否が検討中であるものについて、一方のみが完全に正しい、相手の意見は聞く必要が無い、と切り捨てることの無益さは感じる。自分がそれを正義だと思うと同じく、相手の意見もその相手にとっては正義なのである。「正義」対「悪」ではなく、「正義」対「正義」なのである。

世の中そうそう、絶対悪と勧善懲悪が溢れているものではない。実は正義と正義のぶつかり合いで、その正義らを折衷して「みんなになんとなくいい感じ」を作って回っている。
そういう世の中であったと思っていたのだが、私が知らない間に弱肉強食の戦国時代にでもなったのかもしれない。

そして正しければ何をしても良いのか?とは誰であっても問い続けなければならないのではないか。
世の中は正義のぶつかり合いではあるが、正義だからとやり過ぎ・暴走するのは必要ではない。

余談だが、相対する意見だけで私はその相手を嫌いにはならない。暴走行為からの失礼な言動には嫌悪感を覚える。聞く気も実は削げている。(そんな人も少なくは無いのでは?)
そして、私が以前職場で指摘されたのは「慇懃無礼」である。にっこり笑顔と丁寧な言葉遣いでぶん殴っている(実際には殴っていない)らしい。
苦い薬をそのまま飲ませようとして飲んでもらえないよりは、オブラートに包んででもまずは飲ませることを優先したい私は、慇懃無礼なのかもしれない。
ただ、飲まない限りは効果も無いのである。それなら、とりあえず飲ませることを優先するためには、失礼のないよう、正義の暴走は控えたいものである。そのうち効果が分かって、相手から飲みたがるかもしれないから。

正義からの殴り合いをしたい人々は「殴り合いOK」とでも表記して欲しいものである。私はただ、SNSの大海を漂っていたいだけなのだ。
漂うだけで足に絡まったクラゲに刺されるような事態は避けたい。
ここまで読んだ優しい人は、相手に最低限の礼儀を示しつつ、自らの意見を主張していただけるようお願いしたい。



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