見出し画像

風になる

ということで、こちらで全編となります。
一週間近くかけてしっかりと出しきったので、次もまた頑張ります。

-------------------------------------------------------------------------------------

 私が育った町は、いつも海に近かった。自然のまま残された島には橋がかけられて、多くの観光客が行き来し、少し電車に乗れば古民家が広がる街へと繰り出すこともできる。どういうわけか、私たちの地元は元より東京に近いせいか観光地としてにぎわっていた。大きく広がる海岸線を沿うようにして私鉄線とローカル線が走っていて、夏場は良くにぎわう。ただ、冬場になるとその人影を大きく減らし、どこか寂しい街並みが広がる。栄枯盛衰なんて言葉があるけれど、人生生きていればそうやって必ず枯れて衰えていく時というのが訪れる物なんだと教えてくれた場所でもあった。
 少しずつ日が温かくなる春、多くの人たちであふれかえる夏、寂しさが増してくる秋に、人っ子一人いなくなる冬。海はいつでも「海」であるはずなんだけれど、灰色の世界を見せるときがあれば、輝かしい程青々とした世界を見せることもある。夜は、ただ街灯や灯台の電球だけがグルグルと回っていて、その時によって表情が変わる。行って、戻ってくる音だけが、いつもいつも私を包んでくれているようで。
 東京で仲の良かった同級生も、高校で仲の良かった同級生も。こんな日中にぼんやりとしているなんてことないよな、なんて思いながら私はそれでもただ海を眺めてはいつだって心の中にある小さな何かを蓄えて帰る。
 海岸線の遠くに見える小さな島は無機質なほどきれいな緑色を眺めながら。

 私がこの街に帰ってきてから、早くも一か月が経とうとしていた。放心状態のまま、電車に揺られて海の見える地元に帰ってきたとき、私は私が映っている顔をガラス戸に透かして眺める。その目は死んでいて、その遠くにゴオと灰色の海がただ唸っているのだけが見えて。
 大学時代から3年も続いていたケイとの関係は、たった一本の電話、しかも不倫だったという衝撃の形で終わりを告げた。高校からパパとママが別々になってしまった私の家族は、パパから一方的な形で別れを告げられて終わってしまった。そのことを引きずることが多かったママは一つとして構ってもらえなかったことをまるで昨日のことのように引きずることが、最後は日課となっていたのだ。
 蛙の子は蛙、私も同じような物だったのだろう。メタルフレームを基調にして青の線が入った電車は疲れ切った私の顔とため息を残して、竜宮城の駅へと向かって進んでいく。
 最後、ケイが結婚していたということを知った時の私のショックは相当だった。
「ねえ」
「どうしたの」
「どうして、何も言わないの?」
「何を?」
「私、分かってる。あなたが結婚していたこと。それと指輪を外していたこと」
「うん。だからアリサは悪く無いよ。だけど、ぼくも悪くない」
「そうやって、最後まであなたは自分を正当化するんだね」
「でも、アリサのことは好きだったよ」
「そういう言葉でお茶を濁さないでよ」
「もうやめようよ、こういうの」
「何を」
「せっかく積み重ねてきた思い出さえも、台無しになる」
「もうなってるわよ」
 おんなじやり取りを何度繰り返しただろう。彼から聞くことが出来た言葉は結局、まるでレコーダーで何度も録音された留守番電話サービスのようにしか聴こえなくて。結局、ケイは嫁と幸せになる選択をし、私は都合のいい女として切られてしまったのだけれど、そこからが最悪だった。嫁は私の不倫を内容証明で送り付け、一切の弁明も無いまま会社から一方的に自主退職を薦められた。せめてもの意地でお金だけは取ってやったけれど、これも手切れ金のようなものと思われていたのだとしたら、何となく癪だった。今どきまとめブログでもこんなにとんとん拍子に行くだろうかなんて思いながら、私は気が付くとすべてのものから放り出されてしまっていた。
 大学生の時からずっと一緒にいたケイが、そうやってあっという間にいなくなってしまったことによるショックは甚大だった。ママのような弱い人間になりたくなくて、強くて格好いい女性に憧れて。それに惹かれて、思うと大学時代から色々と活動をしてきた。学生団体にアルバイト、外部のフリースクール、自己啓発。ありとあらゆることをとにかくがむしゃらにやってきた。
 その過程でケイは私のそばに居てくれて、自分のことのように私の成功を喜んでくれて。そのフリースクールでの活躍が評価されて、引き抜かれる形で就職が決まった私のことも、お祝いしてくれて。だけれど、それは一瞬にしてすべてを崩れさせていった。私は体よく使われていただけで、結局ママのように弱い人間の一人だったんだと気が付かされて。ちょうどいいタイミングで契約が切れるので実家に帰ることとなったのだけれど、そうでもしないと本当に消えてなくなりそうになってしまっていた。ケイのことが好きだった私と、ケイに優しく抱きかかえられた思い出と。
 玄関を空ける音がして、笑いながら帰ってきたよと言われることに期待している私は、ただその時までをぼんやりと眺めることしかできない。時々、ケイに就職祝いとして勝ってもらったシャネルのバッグが目に入って、ため息をつく。引っ越しの間際までそんな一日が続いていた。高校の時の友達とかが手伝ってくれて事なきを得たのだけれど、今どきSNSにそんな格好の悪いことなんてできないと、そんなことを思いながらただシャネルのバッグを眺めてため息をついていた。ママがパパと別れた時にも、引っ越しの作業が一切終わらないままぼんやりしていたのを思い出す。ママはワイングラスを眺めてはため息をついていた。きっとママも、あのワイングラスはパパからもらったに違いないんだ。
 とにもかくにも、私はそういう理由から海の見えるこの町に帰ってきた。

 スマートフォンがブルブル震えながら、目覚めを促そうとしていた。もう少し寝ていたい気持ちもあるけれど、そろそろ起きないと。そう思いながら、私はタイマーを止めた。太陽の光が差し込む窓からは、芝生だけの空地が広がっていて、お地蔵さんが私を眺めていた。そろそろ起きないと。まだぼんやりとしたままの私は、まず最初に布団を片付けるところから始める。チサトさんからメッセージが入っていた。
『おはよう。今日はお休みなので、自由に過ごしてね。冷蔵庫にあるものは食べて大丈夫だよ』
 分かりました、という返事とスタンプを押して、布団を片付ける。洗濯物も溜まってきたし、今日は掃除と洗濯をしっかりとやるとしよう。そう思いながら、私は今日もただ暇を持て余す。お給料はあんまり出ないんだろうな。そんなことを考えてしまう私は少し罰当たりなんだろうか。しんとした長屋の畳が敷かれた一間で、私はまるで溶けてなくなりそうになっていたひと月前を思い出す。
 あれから実家に帰ってきたはいいものの、ママは昔恋していた人と恋をやり直そうとしているようで、その恋人も一緒に住むようになっていた。のけ者にはされていないけれど、どこか私には入ることができないバリアーのようなものがそこにはあって。気にされていない、なんて言うつもりはないけれど、私はもう大人なんだからと突き放されているような。そんな気分にさせられてしまう。だから、人目を盗んでこっそりと夜や朝にテレビを見たり、食事をしたりするのだけれど、ママや恋人の目がどうしても気になって、私はどうしても気が引けてしまう。人はそれぞれに事情があり、時間が経過すればするほど、家でさえ居場所ではなくなる。突然すべてを放り出された私は、まるで宇宙空間に放り出された宇宙飛行士そのものだった。
 その宇宙はあまりにも広すぎて、行く場所に誰もが彷徨う。目的地も信用も、誰かの後ろ盾も。そういったものが何一つ定まっていないままそこへと飛び出せば、誰からも受け入れてもらえず、相手にもされず。私はただ一人で歩いていくしかない。全てを分かったようなふりをして身ぎれいにしていた私のその姿は、所詮ただメッキを塗りたくられた張りぼてそのものだったのだ。私は今までそうやって、張りぼてのまま居場所を求めて彷徨い歩いていたのだ。
 大人になると、途端に居場所がなくなると思う。子供の頃は砂場や学校や、友達の家やどこかに所属しなければ、あるいは金を払わなければ。時間の消費さえままならないうえに、居場所を作ることなどできないのだと。今更ながらに分かってしまった。結局は何かしらの対価を払わない者に、場所が提供されることなど、ない。
 思うと、大学時代も無理やり居場所を求めていた節はあった。ここに所属をしていれば、自分は経営学を学ぶことができる。この人についていけば、自分も行く行くは経営者となることができる。どこかで同級生や定職にもつかないでフラフラとしている人を見下していた節はあった。居場所のない人間に同情をしていたのだろう。見ないようにしていた。そして、そうやって居場所を見つけてはそこで安心をしている私自身がいた。ただ私は、所属していることだけで安心をしてしまっていたのだ。本当に安心かどうかなんて、分かるはずもなかったのに。
 とにかく居場所を見つけないことには時間を潰すことでさえ億劫になってしまう。つなぎでもなんでもいいから、アルバイトを探さなければならなかった。居場所がなくなったということから、そうしたメッキが徐々にはがされていっているのが、私にはわかっていた。とにかくどこでも良いから時間を潰さなければならない。その矢先、小さな古民家に明かりが灯っているのを発見した。
 そこから漂うコーヒーの匂い、女性の微笑む姿、そして畳張りの部屋で寝ころびながら漫画を読み、コーヒーを飲んでいる男性。手作りっぽい看板には「純心」と書かれてあった。私は気が付くと扉を開け、そしてまるで流れるようにコーヒーを頼み、それから気が付いたら横になって、同じようにモモを読んではぼんやりとしていた。
「あ、お客さん。今日はもう終わりですよ」。そうチサトさんに言われるまで。気が付くと、時計の短い針は11を指していて、もう帰る時間となっている。クスッと微笑みながら、チサトさんは笑う。
「でも、ちょっとだけ人間に戻ってきましたね。良かった」
 そう続けながら。
「人間、ですか?」
「どこか、魂が抜けているようにも見えたから」
 私の顔を覗き込んで、心配そうに話をつづけた。それはケイ以外で久々に聞いた、体温のある言葉。業務的でもなく、必要以上に角も丸みもない、暖かな言葉。私は、思わず口を開いてしまった。
「ここで働かせてもらえませんか!?」
 あの時の私は、もう焦りやら何やらできっとチサトさんには変な人に思われていただろう。だけれど、チサトさんはにっこりと笑って快諾してくれた。それから私はここで住み込みで働くようになっていた。
 チサトさんの行動は私にとっては今まで見たことのない、本当に驚くべき人だった。土日祝日は休みのはずなのに、突然スマホでメッセージが来て「お店やろっか」と連絡が入ったり、突然お店を閉めたかと思うと「試しにクッキーを作ってみてよ」と言われたり。一番驚いたのが、お店を開店させる10分前にメッセージが入り「今京都にいるから」と言われたこと。
 本当は突拍子もなく動き回る人は私が好きな人間ではないのだけれど、その風のような振る舞いに私は呆気に取られて、それでも温かさにどこかホッとしていた。こうして、住み込みで働くことを勧めてくれたのも、チサトさんが私にしばらくはここに住んで良いよ、と言ってくれたから。きっと私の魂が、抜け出てしまわないようにするための彼女の温かさの一つだったんだと思う。布団を干しながら、私は彼女に心から感謝している。
 掃除を終えて布団を取り込もうとした瞬間、目に飛び込んできたのはシャネルのバッグ。無機質でおしゃれなそれに、私は唇を噛む。まだケイはそこにいると思いながら。

 真冬の夜はどうしてこんなにしんとしているんだろう、と思う。何度と見た夢の中で、ケイは私に向かって笑っていて、それで私は手を伸ばそうとするのだけれど後ろにいる視えない影に腕をつかまれたままそこから動けない。何度も何度ももがこうとするたびに何かが私を責める。言葉で目線で、そして押さえつけられた腕で。私はいつも咎められ、弁解の余地さえないまま悪者扱いされたままで。そのたびにやりきれなくなって、お茶を飲んだり、漫画を読んだりするんだけれど、その日は漫画を読んでも何をしても眠れなかったので、海を見に行くことにした。
 寒空の中を一人で、通りのコンビニでコーヒーを買って海へと歩いていく。温かい缶コーヒーは寒さと私の飲むペースが速すぎるがあまり、あっという間に消えてなくなる。ペットボトルだとぬくくないし、大きいのを買うと持て余す。寒さに凍えながら、コートとパジャマで歩いていった。
 私はケイといるとき、とても心が満たされていた。いつも一生懸命に仕事を頑張っているケイは私にとって心から誇りに思える男性だったし、実際に彼と上手く行っているときの私はすべてがうまく回って、ただ自分がなっていたい姿やあるべき幸せだけを追い求めていた。ただ、それがあまりにも張りぼてで、しかも一瞬で消えてなくなってしまうようなものだったことに、私はまだ気が付いていなかった。
 気がついて見ると、私にとって幸せって何だろうと強く思う。今まで信じてきたものすべてが否定されてしまったようで。ただ純心で時をとどめているだけなのかもしれない。いつかは、歩き出さなければならない時を決めて。風が強くなり、海がもう少しであることを私に伝える。しんとした海にちらりと見えるオレンジ色の光とパチパチした音。何かを燃やしているような匂い。気になって、少しだけ歩くスピードが速くなっていく。
 視界が開けると、そこでは一人の男が焚火に火をつけて、何やら物思いに浸っていた。ぼんやりと火を眺めている彼のことを、私はどこかで見た気がした。私を見るや否や、彼は声をかけてくる。
「あれ、純心でモモを読んでいた子ですか?」
 金髪パーマに髭面の冴えない顔をした男が、私に声をかける。ぎょっとした私は首だけでうなづく。
「あ、ごめんね。そんな気分じゃなかったか」
 私に遠慮した男は、そのまま焚火を眺め続ける。どこでこんなに木々を拾ってきたんだろうと思いながら、私は遠巻きにそれを見る。オレンジ色でパチパチと音を立てている火を見ながら、美味しそうにタバコを吸っていた。ケイはタバコを吸わない人だった。健康に悪いからと言って、居酒屋で煙を浮かべている人たちを嫌悪するくらいには。私の友達も、パパもママも。みんなタバコは吸わなかった。だから、こんなに間近で吸われているのに、少しだけ違和感を覚えた。
「もしよかったら、この石にでも座りませんか?」
「良いんですか?」
「ええ。どうせですから、お話でも」
 人当たりの良い、柔らかな人だと思った。気が付いたらみんな友達にしているような。穏やかに包んでくれる温かさを感じる。あれ、たばこの煙嫌でした? と言って、吸い殻を焚火に放り込んで。それから私をじっと見た。
「なんですか?」
「少しだけ輪郭が見えてきたみたいですね」
「え?」
「この前の時より、少しだけ存在がくっきりしている気がします」
 目を丸くして驚いた。オレンジに染まる火が、その人を次第にくっきりと、そしてぼんやりとさせる。彼もまだ、ぼんやりとしたままなのかもしれないと思いながら。
「だけれど、まだまだ振り切れていないってところもあるみたいですね」
 まあ、ぼくもそうなんですけどね、と笑いながら焚火を眺めている。その顔は笑顔なのだけれどどこか寂しそうにしていて、私は思わずドキリとしてしまうほどで。
「もしかしたら、みんなそうなのかもしれないけど」
「そういうもんですかね」
「きっと、こうして焚火をしているのも、自分の存在をくっきりさせるためなんですよ」
 彼は笑った。また、寂しそうな顔で。
「ぼく、あっちこっち旅しているんです。日銭稼ぎながら、ある程度金溜まったらまた旅してって」
「なんだかせわしなく生きているんですね」
「そうですね、根無し草ってよく言われますよ」
 屈託なく笑う顔は、それでもまだ少し寂しそうで。
「でもね、色んなところに行けて色んなものに触れて。やっぱりそう言うの楽しいんですよね」
「それで、この町に流れ着いたと」
「元々東京の生まれなんですよ」
「え、そうなんですか?」
「だから、今年の正月くらいは顔を出せそうかなって」
 言いながら笑う彼は、とても明るくて、魅力的で。
「それに、こうして焚火もやりたかったんでね」
「あ、それで」
「こうしていれば、ぼくが今まで生きていたそのものさえ燃やしてくれそうでね」
 そう言って、私に向く彼はさっきと……いや、それ以上に寂しそうで。ただ、なかなかどうしてさっきから私の確信を突いてくるような、そんな顔と話をしているのだろう。火はまだ燃え盛り、そしてはじけるように天へと火と煙が昇っていく。私はそれをただ眺めながら、燃やしたいものを思い出す。
 海に行ったことがあった。結局その日は日帰りで、ものすごくゆっくりできたわけではないのに、どうしてだろう。一つひとつのことが鮮明に思い浮かべられるようになっている。ケイと遊んだ砂浜、ケイと一緒に食べた海の家の焼きそば。日暮れ、なんだか西海岸っぽいカフェで食べた夕食。そういえば、地元から少しだけ離れた海岸線だった。ママの顔を見ることさえできないまま、日が暮れるとサッと帰ってしまったけれど。
 快活で、いつでも気が利いて。それでいつでも私を見てくれて。もっともっと、話したいことや感じていたこと。彼の腕の中で過ごす時間。海と一緒にしたかったことがたくさんあったはずなのに。私は唇を噛みながら、焚火を眺める。
「そういえばさ、こんなの持ってきたんだよね」
 ガサゴソと何を探しているのかと思うと。取り出したのはマシュマロとビスケット。すっかりと冷めてしまって空になった缶コーヒーを私は恨む。
「昔、幼稚園でお別れバーベキューみたいなことやったらしくて。その時になんでか分からないけど、ぼくだけこれ貰えなかったんですよ」
「それってハブられてたんじゃないですか?」
「うん、そう。母さんが言ってました。ぼくは先生から嫌われていたって」
 明るく笑いながら話す彼は、私が知らないところで想像を絶するほどの強い否定を何度もされてきたのだろうと思うと、少し寂しくなる。私なんて大したことないんじゃないか、と。ずっとずっと私はママやパパに恵まれて、彼氏もいて。それがたまたま当たったのがとてつもなく大きなことで。見下すわけではないけれど、この人のように不幸を子供のころから背負っていたわけではないのに、と思いながら自己嫌悪に陥ってしまって。
 彼があっけらかんと笑いながら話す過去も、一切耳に入ってこなくて。続けて入ってきた言葉は、スッと差し出された割りばしとマシュマロ。
「いやー、やっと焚火でこれができる。夢だったんですよ」
 どうです? と差し出された割りばしとマシュマロをあっさりと私は受け取る。そして、なんとも準備が良く温かいコーヒーまでついていて。なぜだかホッとする甘さとコーヒーに私は安堵してしまって。言葉がこぼれていく。
「大したことないですね。私の躓きって」
「なんでですか?」
「だって、たかだか失恋して、それがたまたま不倫で。運が悪く職を失って。転んでいるのがバカみたい」
 吹っ切れたつもりだった。そうしたつもりで、どうして私はここに帰ってきたのか、そして純心で働いているのかまで打ち明けた。すべてがどうでも良くなったような、バカバカしささえ感じてしまう程に。吐き捨てるようにして、私は言葉をどんどんと続けた。それなのに、どうして彼は私を真剣に見つめるのだろう。
「バカじゃないですよ、全然バカじゃない」
 さっきまでの明るく笑う彼とは全く違う顔をしていて。
「むしろ、そんな悲しいことがあったなんて知らなかった。ごめん」
「そ、そんな」
 謝られて。別に私は怒ってもいなければ、悲しんでもいない。ふいにこぼれた言葉なのに、どうしてこの人はここまで真剣なんだろうと思う。そして、どうしてそんなに辛く悲しそうな顔をするんだろうと感じて。
「ただ、一個だけ良いかな」
「なんですか」
「きっと、ぼくも君も。燃やしたいものがあると思うんだ」
 次会う時までに、それを探してみようよ。彼とはそう言って別れた。別れる前に名前を教え合った。私はアリサ。彼はシュウ。まるで秘密基地の合言葉を教え合うみたいにして。

 と言っときながら、シュウが純心にやって来たのは、次の日のことだった。
「今日はなんかお天道様がやれって言っているから、準備よろしく!」
 寝ぼけ眼の私にチサトさんに電話でそのように言われて、布団を片付けてコーヒーやらお菓子やらの準備をしていると、彼がすっと現れたのだ。
「いやあ、昨日ぶりだね!」
 ん? 夜ぶりか、なんてへらへらと笑いながら。昨日の夜に見せたあの真剣な顔は一体何だったんだろうと思いながら、取り急ぎということでコーヒーを淹れてあげる。
「お、アリサってコーヒー淹れられるんだ!」
「そりゃあ、チサトさんに心を込めて淹れなさいって教わったもの」
「うーん、良いよね。やっぱり誰かのために淹れるコーヒーは最高だよね」
「あ、わかる。でも淹れたことあるの?」
「あるよ!」
 笑いながら返される。気が付くと、私とシュウはまるで何十年来の友人のように会話をしている。
「大学生の時かな。母さんにコーヒーの淹れ方がなっちゃいない! って説教されたんだよね」
「なんでそんなことで」
 私は笑いをこらえながら、彼を見る。ただ、笑いながらもシュウはいたって真剣だった。
「でも思うんだよ。母さんってそうやっていつもご飯作ってくれていたんだなって。でもぼくたちが大人になって行くにつれてやっぱりそうした愛情の込め方も教えて行かなきゃいけないって思ったんだろうね」
「どうして?」
「愛情ってさ、与えるだけじゃなくて、与えたいと思わせないとダメなんだよ」
 ズキンとくるような、痛みを覚える。そういえば私はいつでも、ケイに何かを与えてばかりで、私が何かをもらったことはほとんどなかった。強いて挙げるなら。あのシャネルのバッグくらいなのだろうかと思うと、私の胸が少し苦しくなる。
「それでさ」
「うん」
「最終的にお母さんからコーヒー、なんて言われたの?」
「あんたも少し入れるのは上手くなったね、だってさ」
 二人で噴出しているとお湯が沸き、そしてゆっくり丁寧にコーヒーを淹れていく。ゆっくりとポタリを落ちていくコーヒーの雫。思うと、私はこんなにゆっくりとコーヒーを待っていたことは無かったな、と思う。いつもコーヒーと言えばスターバックスだったし、インスタントだし、缶コーヒーだった。だけれどこれだけゆっくりと作り出されたそれを吟味しながら淹れていく時間を過ごしたことがあまりにも少なかったのだ。
 それから、出来上がったコーヒーをカップに入れて、目の前のシュウに渡す。嬉しそうな顔をしたシュウはゆっくりと飲みながら「美味しい」と笑う。それに安堵する。チサトさんはまだ来ないけれど、今のうちに色々と準備を進めてしまおう。ちょっとごめんね、準備しているからとシュウに話すと「お構いなくー」と言って、お地蔵さんが見える窓の外へと足を動かす。それからおもむろに本棚へと赴くと、まるで自宅かのように漫画を何冊も持ってきて読みふける。まるで漫画喫茶のような彼のその姿に、思わずくすり、と笑いながら私は作業を続けていた。
 チサトさんがやってきて、それからそれなりにお客さんが来た夕方。シュウはまだお地蔵さんに見られながら漫画を読んでいた。それからチサトさんお手製のナポリタンを食べたり、おやつのパンケーキとコーヒーをお代わりしたり。しまいには昼寝をしたり。それでもシュウは帰ろうとしなかった。
 もじゃもじゃ頭の女の子が表紙になっている漫画。私も一回だけ読んだことがある。だけれど、辛すぎて、読み返すことが出来なかった。まるで私自身を見ていたような気がしたから。無理して何かに合わせて、無理してケイに合わせて。何もかもを合わせ続けていた結果、私はすべてを失った。残ったのはシャネルのバッグだけ。
「シュウくん、そろそろ閉めちゃおうと思うんだけど」
「え、チサトさんマジ? じゃあ、そろそろお暇しますね」
「ごめんねー」
「全然全然。漫画、片しておきますね」
「ありがとね」
 肩のぬけた表情で笑うシュウは、なんて自由なんだろうかと私もうらやむ。空になったコーヒーカップを洗いながら、私もあんなに自由になれたらなあと思う。きれいに表れたコーヒーカップを水切りラックに置くと、シュウと目が合った。それから私に向けて二回・三回手招きするように、私を呼びつける。何事かと思って向かうと、一枚の名刺のようなものを渡される。それはお店の情報が書かれたものだった。
「今度遊びにおいでよ」
「え」
「コーヒー、めちゃくちゃおいしかった。燃やしたいものが決まったら、おいで」
「なんで?」
「夜に、一緒に燃やそうよ」
 そう言って屈託なく笑った彼はしれっと玄関へと出ると、私にもチサトさんもなにやら呆然としたまま、彼を見送った。お店としてもそうした商売や宣伝を受け取ることは多いが、何分燃やしたいものが決まったらって感じで言われたのは初めてで。呆然としたまま彼を見送るしか、その時の私にはできることが無いことも事実であった。見送った後、チサトさんは私へと渡された名刺を眺めながら、大通り沿いのカフェじゃない、と返す。
「え、チサトさん知っているんですか」
「知っているも何も。あそこいつも人気でセレブとかが良く行くようなお店よ」
「へえ」
 驚いたふりをしたけれど、確かに彼の立ち居振る舞いがそうしたエレガントさに満ちていることもまた事実ではあったし、何も不思議ではないな。そんなことを思いながら姿が消えたシュウの姿を思い浮かべていた。
「彼、良いわね」
「そうですかね」
「お似合いとかじゃないわよ。人として」
「そうですね」
 それから、燃やす物が決まったのは3日も後のことだった。

 西海岸をイメージして作られたというその店は、ロサンゼルスから帰ってきたのかと思うような人々で少しあふれていた。不意に、ケイと来たあのカフェを思い出し、私は少しだけ胃の奥をつかまれたような気分になる。どうして、燃やそうと決めたのに。唇を噛んで上を眺めていると金色の髪の毛をしっかりと縛って働いているシュウが目に入ってきた。
 ウェイターで忙しなく働く彼は、焚火をぼんやりと眺めている時と違って、ちゃんと労働しているんだということを私に教えてくれて、少しばかり嬉しくなる。
「おお、来たんだ!」
 ニコニコとしながら私を見ると右手を上げて向かってくる。私も右手を上げて、それに応えるのだけれど、その顔は少し引きつっていたのだろうか、すぐさまスッと寄ってくる。
「まだ忘れられそうにない?」
 シュウは私の顔を覗き込みながら、心配そうな顔をしている。首を縦に振ると、彼は「そんなもんだよ」と言いながら私の頭をぽん、と触れる。驚いてシュウを見ると、ふっと笑ってまた仕事へと戻って行ってしまう。金色にパーマをかけたポニーテールがゆらり、と揺れて窓側のテラス席へと導いてもらう。
 どんなものを頼もうかとメニューを見ていると、髪の毛を短く切った男性がコトッとテーブルにサラダを置いた。
「え、まだ何も頼んでいないですよ」
「ああ、なんかシュウさんから奢りだって」
「そんな、いいのに」
「今日はあなたにとって大切な日だから、だそうですよ」
 キザですよね、と笑いながらお冷を手渡す青年。どうぞごゆっくりしてくださいね。というマニュアルにはないトーンでお辞儀をすると、そのまま接客に戻ってしまう。いい店だ、と思う。そういえば私はいつも仕事以外の日はケイのことをずっと待っていて、趣味も生きがいも。すべて彼にしかゆだねていなかった。私がいつもよそ行きで身に着けていたのは彼好みの高そうな服だけで、こうしてラフで多少しゃれていない服で外へ出て、こうしてご飯を食べるのはいつぶりだったんだろうなんて思う。
 彼はいつでも私に尽くしてくれていた。それが愛だと思ったから。だけれど、私は尽くしていたのではなく、都合のいい存在だっただけだった。きっとケイにそのことを話しても絶対に認めることはしないだろう。けれど、彼にとって私は体のいいリカちゃん人形だったのだ。海を眺める。唇をキュウ、と噛む。変わるには、強い痛みと苦しみが必要なのだ。私はサラダを食べ、パスタを食べ。さらっとしたワインをいただく。ゆるりと酒が回っていく。昼間からお酒を飲むなんて、学生の時以来だろうか。あの時に飲んだのはフリースクールの集まりか何かか。まだ寒い季節で、それで花見なのに花も咲いていなくて。それなのに、信じられないくらい笑いあって。何も知らなかったのに、何もかもが楽しすぎて。
 そうだ、ペアルックだってはやし立てられて、私に片思いをしていた男性が居たんだった。彼は私に何かと付きまとっていたけれど、やっぱり気持ち悪くて、最後は突き放すように別れたんだっけか。インスタで見たその人は、相変わらず一人ぼっちで寂しそうにしていて。ケイと付き合っていた時だったら私はなんて言っていたんだろう。きっと上から目線でいろんなことを言っていたのかもしれない。そう思うと、うすら寒くなってくる。
 思い出が不意によみがえって、海を眺め続ける。本当にこんな贅沢をしていていいのだろうか、とか。あの頃に戻ることができたらな、とか。そんなことを思っていると、シュウがすっとテーブルに寄って来る。
「どうよ、味は」
「すごくおいしい。でもいいの?」
「変わるってさ、それだけ大変なんだから。心に体力をつけないとね」
 笑いながら、デザートとコーヒーをテーブルの上に置く。ふわふわに作られたケーキと黒い色をしているコーヒー。
「ちなみに、このコーヒーはぼくが淹れたもの」
「愛情がこもっているってことかしら?」
「そういうことにしておこう」
 下を向いて、笑いあう。そうだ、私もケイとこうやっていつでも笑いあっていたかったのだ。こういう関係性で居たかっただけなんだ。それに気が付けただけでも、凄く良かった。今なら、きっと。シュウと笑いあいながら変わることができるかもしれない。夜が待ち遠しくなりながらケーキをほおばり、コーヒーを口にした。やがて沈んでいく夕陽はまるで焚火のように赤くて、いやあんなに赤々と焚火はしていなかったなって思って。
 とても、とてもおいしいひと時だった。

 本当に燃えてなくなるまではあっという間だった、と思う。それじゃあまた後で、と連絡先を交換してからシャネルのバッグを取りに戻る。その中に入れたのはいくつかの思い出と言葉にできない何か。私がそのバッグに詰めたのはそれくらいだ。あたたかなコーヒーを買って、待ち合わせていた海岸へと向かう。
 また、いつものようにタバコを吸いながらシュウは私を迎え入れてくれる。一つも変わらない顔で。既に焚火はパチッと音を鳴らしながら燃え盛り、後は放り投げてしまえば焚火が全て燃やし尽くしてくれるだろう。あれだけ昼間格好いい姿をしていたと感じていたシュウは、すっかりと髪の毛を下ろして、漫画を読んでいるときの顔になってしまっていた。ただ、微笑んでいる中で少しだけ真剣な声がした。
「未練は?」
「ある」
「やめておく?」
「ううん。やる。あんなにおいしいひと時をもらったんだもの」
「気にすることないさ。あれはぼくの勝手」
「元は取らなきゃ」
「現金だなあ」シュウは空を見て笑ってから、もう一度私を見た。今度は完全に穏やかな顔で、私に伝える。「大丈夫。見てるから」
 伝えると、私も頷いてバッグを焚火の中に放り込んだ。燃えていくバッグを見ながら、私はたった一人で天を仰いだ。白い煙の中に、黒が紛れ込んでいく。それは、私がとらわれていたもののすべて。レッテル、ステータス、これまで積み重ねてきたもの、全てとプライド。大人になってからつけてしまっていた物、全て。天へと昇って行くのが分かる。私が終わる。私が失われる。グッとこらえようとした瞬間に、華奢な胸板が私を包む。驚いて目を開くとシュウはタバコを吸いながら左手で私の背中を包んでいた。
 その瞬間に、私にとって大切だったはずそれら全てが、何もかも大切でないことが分かってしまって。大切にされていないことの悲しさがこみ上げてきて。涙があふれてくる。気が付くと私は震えて泣いていた。シュウは背中を優しくさすってくれていて、小さく「無理に頑張らなくていい」と耳元でささやいていた。
 火が消えたのは、それから30分経ったくらいだろうか。すっかりと体が冷えてしまった私たちは、純心に二人で向かい、あたたかいミルクココアを飲みながら話をしていた。手渡すと、シュウは笑いながら「ありがとう」と言った。
「ううん、大丈夫だよ」と私は返す。「私こそ、ありがとうだよ」
「なんで? もっとぼくはアリサにありがとうって言いたいのに」
「どうして?」
「ぼくもね、やっと色々と吹っ切れそうな気がするんだ」
「それは私もかな」
「良かった」
 シュウは笑う。私も笑う。どうしてだろう。さっきから私たち笑ってばかりだ。おかしくて笑っているんじゃなくて、何か新しく前へと踏み出せそうな自信を持った笑顔。
「だから、ぼくはそろそろこの町を出ようと思うんだ」
 驚きの言葉。そして、その時が来てしまったという私の諦め。いつかは来ると思っていたことだった。
「今度はどこへ行くの?」
「京都かな。年明けに実家へと帰ったら、すぐに行こうと思う」
「あては?」
「なんとでも」そう言って笑う。「冗談。同級生が向こうで働いているんだ。古民家風のカフェらしいんだけれど、そこを辞めるらしくて、短期でできる人を探しているみたい。ああいう品のある所で働いたことないからやってみようかなって」
「まず金髪を黒くしないとね」
「そうなんだよね」
 軽口をたたいたつもりだった。それなのに少しだけ、寂しい顔をしたシュウ。子の決意がどれだけ重たいかを察するにはあまりあるものだった。
「ぼくは、色々な人に迷惑ばかりかけてきた人生を過ごしてきてさ、どんくさくてぶきっちょで。『お前なんかいらないよ』と言われたこともあったしね」
「ひどい」
「うん、だけれどそれはぼくが悪いんだって思い続けて、戦うことから逃げて。というか、争いが面倒なだけなんだけれどね。そのたびに自分自身をどうすれば理想的にできるかなって思ってパーマをかけて、髪の毛を染めてって色々やったんだよね」
「発想が中学生じゃん」
「あ、やっぱりそう思う?」
「うん」
 二人でまた、下を向いて吹き出した。どうして、シュウといるとこんなに楽しいんだろう。そして、その楽しい時間ももう少しで終わってしまうんだろう。
「焚火もそれの一環だったんだよね。大切な何かを燃やすっていう」
「シュウは何を燃やしたの?」
「うーん」上を向いて考えてから、返した。「自分が色々と纏っていたプライドかな」
「格好つけたがりなところは燃えなかったのね」
「男だからね」
 何が男だ、全くと私は思う。世の中はジェンダーフリーだぞと思いながら虹色の旗を思い浮かべて、あの色は真っ赤な夕焼けやあたたかな炎とは合わないなとだけ思った。
「だからかな。こうしてアリサと二人で過ごすことができて、嬉しい」
 驚いて目を丸くした私は、シュウにどう映っていたのだろう。それから二人で布団に入り、どういうわけか成り行きでセックスをした。吐く言葉以上にヘタクソだったけれど、丁寧で優しいセックスだった。
 彼が帰った後、押し入れに布団をしまう。そこにバッグはもう無い。ケイと手にしたかったそれらは、シュウが一通りすべて教えてくれたような気がしたから、もうあのバッグは必要なくなっていた。

 それから2,3日経って、竜宮城の駅で二人でハグをして別れた。恋人同士のハグというよりはアメリカ人が友情を誓い合うようなハグで。そういえば今日は、チサトさんから大切な話があるということだった。もうすぐ、年が明けようとしていた。
「あら、お帰り」
 純心に帰ると、チサトが私を待っていた。穏やかに笑う姿は、初めてここで出会った時と同じような顔だ。
「すみません、遅くなっちゃって」
「ううん、大丈夫」チサトさんはそれから少し、真剣な顔をした。「アリサちゃん、驚かないで聞いてね」
「もう何を言っても驚きませんよ」
「本当に?」
「ええ」
「お店を閉めるといっても?」
「え?」私は驚くどころか、言葉を失った。「な、何でですか?」
「驚かないって言ったじゃない」
「それは驚きますよ」
 口に手を当てて、チサトさんは笑っていた。そうよね、とうなずきながら。それから、また微笑む。
「アリサちゃんがやっと一つ何かを抜け出せた気がしたから」
「何か、ですか?」
「アリサちゃん、シャネルのバッグは?」
「燃やしました」
「ね?」すっと距離が縮まった。「抜け出せたじゃない」
 それから、よく頑張ったねと頭を撫でる。私はまた、うるっとしてしまう。
「元々ここは、私が気分で開けていた場所。だけれど、アリサちゃんがこうやって拠り所にしてくれたおかげで、しばらくお店をやることにしていたの」
「そんな、私のためなんかに」
「だって、あなたがここを求めたじゃない。だから、返してあげただけ」
 そう、笑いながら。あなたはここから羽ばたきなさい、と言われているようで。だけれど、まだまだ私にはここが必要な気がして。それを言葉にできなくて、私は思わず聞いてしまう。
「でも、そうしたらチサトさんはどうするんですか?」
「実はね、京都に行こうと思うの。呼ばれてて」
 少し上を見ながら、チサトさんはそう話した。私はふいに、シュウの姿が浮かんだ。京都って言ってもどうしようもなく広い場所だ。もしかすると会えないのかもしれない。けれど、また会うことができるかもしれない。そんなワクワクだけが私の頭の中で先行してしまっていた。
「私、ついて行っても良いですか?」
 口をついて出た言葉に、チサトは驚いてから少しだけ悪い顔をした。
「さてはシュウくん狙いね?」
「あ」ばれた、と思いばつの悪い顔をしてしまう。「それも、そうなんですけれど」
 首をかしげて、チサトさんは私に言葉を促す。
「今まで頼っていたものや縋っていたものをすべて燃やしたんです。けれど、京都に行けば何か変わるかもしれないな、って思って」
 いや、そんなに甘いものじゃないってわかっているんですけれど。と続けながら。チサトさんは言葉をすべて聞き終えると、にっこり笑った。
「大丈夫、アリサちゃんは十分変わってきているよ。あとはきっかけだけ。そこに気が付くかどうかは、アリサちゃん次第」
 私の手をさすりながら、チサトさんはにっこりと笑って話す。
「私はそれを与えてあげるしかできないけれど、それでもいい?」
 できる限り、私は大きくうなずいて「はい!」と言っていた。それはとても大きな声で。それからチサトさんは私にこう言った。
「コーヒー淹れようか」
「え」
「淹れて美味しいお菓子を食べましょ。それから、そのお話もしましょうか」
 とても重要なことを話そうとしているはずなのに、なんだか穏やかな午後のひと時に雑談をするかのようで私は逆にときめいてしまう。私は顔中いっぱいに笑顔を浮かべながら、大きくうなずいた。
(了)

~過去作品~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?