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コロナが映し出したのは何だろう

猛威を振るうウイルスがやってきてパンデミック騒ぎになって早くも2年以上。マスクは当たり前、出てきたワクチンはこれで何種類目だろう。「○○株」が出てきたのも何種類目だろう。

テレビやニュースサイトでは危険性を強く喧伝して、SNSではその真逆を行く情報も出て来て。

そうした中で、これはただの風邪だ、いやそうじゃない。ワクチンは危ない、でも私は大丈夫だった。マスクがうんたらかんたら、飛沫だ・密だ・なんだかんだとその他もろもろ。本当かウソか疑わしいような情報さえ流れてくるようになった。

ただ、ひとたびクラスターともなれば大騒ぎで、それが原因で友達の結婚式に出席することも叶わなかった友人も居たし、自分がどこかからもらってくるか分からないからと外出の機会そのものも絶ってしまう人は少なくないはずだ。

とはいえ、オフ会や飲み会とかもオンラインになった。顔と顔を本当に合わせなくても、わざわざ外出をせずとも出会うことができるし、実際に顔を合わせた時の感動も割と多い。

そういう点で多かれ少なかれ生きていくことはできるし、出会った時にある程度のことを知っているがゆえにコミュニケーションのズレは無くなったのはすごいことだと思う。

だが、本質的に人は生身の人と触れ合うことで、本当の意味で「人」となっていく生き物だ。

私は基本的にインドアだが、別に人と会話することが嫌いなわけではない。

友達たちと屈託なく笑うことができて、その上で楽しむことができる時間は極めて貴重なものだ。互いの趣味に共感したり、ちょっといい話を聞いて盛り上がったり。カラオケやボーリングを楽しんだり、海や花見に行ったり、結婚式でお祝いしたり。そうした時間は極めて貴重だ、と思う。
とはいえ、生身の人間でそんなに良いことばかりが起こるはずもない。

例えば、何かを共にする喜びや集団生活の中で起こりうるイザコザ。人を物理的あるいは心理的に痛めつけると、どうなるか?
いじりが度を越したときに果たしてどうなるのか?
自分はあまり感情を出すのが苦手だったので、尚のこと怒りを言葉にできないもどかしさは常に心の中にあった。逆に怒らせてしまったこともあった。それは申し訳ないと、今でも思う。それは誰もが経験することなのではないだろうか。

人と触れ合うことは幸せなことばかりではない。その幸せでない傷つけてしまったという「失敗した経験」もまた、人を成長させる重要な機会だと自分では思う。

そうした失敗や成功といった経験からどんどん人は「人」になっていくんだろう。そう自分は思っている。もちろん、それは一度や二度だけではなく、様々な経験というミルフィーユのようなもので象られていくのではないか。

それをコロナウイルスという存在が「人」にならんとする過程を大きく阻もうとしている。それは「人」という経験と機会が大きく取り除かれているからに他ならない。

だから、SNSでの暴言や誹謗中傷と言った類のものがクローズアップされ始めた。もちろんコロナ禍以前からこうした話題もあったし、ネット上の誹謗中傷取り締まりもまた、クローズアップされるようにはなっていた。だが、木村花さんの自殺というショッキングなニュースなどが発端となって、あらゆる形での誹謗中傷被害が話題となり始めていったのもコロナ禍からではなかったか。

その人を知っていれば使わないであろう言葉で人をののしり、相手に顔が見えていれば間違いなく使わない言葉で相手を傷つける。外面は良くても中身は誰かを見下しているという構図は漫画などで良くある展開ではある。
また、一つの事件やニュースに対して感情的になる人も多く居る。自らの感情や正義を振り回し、Good評価を手にして自らの声が世の中の声だとも思う(まあ、good評価が多いと嬉しい気持ちは分かる)。
誰もが闇を抱えていて、この世界に何かしらの窮屈な感情を抱いていて、それが閉塞感となって怒りとなって行く。その気持ちは分からないでもない。

だからこそ、ある意味で最も今私たちは「人間という動物」に一番近い状態なのかもしれない。

道理に合わないことに怒り、理不尽に嘆き、そして良いと思えることに感動する。それを周囲に同調するようになり、それが得られないことにまた同じように嘆き、怒る。ある意味でピュアだが、ある意味で動物的ともいえる(理性が働いていない、とでも言うべきか)。
もしかするとそれは人が持っている本質の部分なのだろう。

何よりもそうした中で、「自分の考えていることは100%正しい」と承認してくれる居場所にだけ居られるようにもなった。

例えば、同じ女装をする人でも「性的違和」と「趣味女装」はどうしても相いれない部分が必ずあるという事。それを理解した上ですみ分けている人もいるのが事実だろうが、それで趣味女装の人間を罵ったりその逆をしている人だっている。
その人たちの周囲は「あなたは正しい」と言い続けるだろう。なぜなら、その世界でしか生きていないのだから。
きっとその空間はとても幸せだろう。誰からも邪魔されない、誰も否定的な意見を自分自身にかけられないのだから。

ただ、そうした環境に身を置いていれば間違いなく自らの感覚は鈍る。やがてそれは異なる考えに対して排他的で攻撃的になってしまうこともある。それは正しさや正論を盾にしたり、時にやさしさを盾にしたり。様々なことで、様々なやり方で。

SNSはそれに拍車をかけるようになった。気に入った人の発言や投稿はフォローし、気に入らない投稿や発言はブロックする。もちろん、害になるものも多いだろうからそうした機能はとても大切ではある。だが、それを行うことによってどんどんと人は先鋭化していった。
考えに妄信する人、世相に流されていく人。これまでにだってそう言う人が居たのは事実だが、恐らくより鮮明になって行ったのがこの2年ではないだろうか。

更にその中で先鋭化している。外見は優しく穏やかな人でも本当は攻撃的で、排他的で。そういう人が増えれば増えるほど、日常では些細な争いが絶えなくなる。

つまりこのウイルスがもし「茶番」だとするなら、それを仕掛けた人は何を目的にしたかったのか。ぼくはそれは「人と人とのつながり、絆を破壊するため」じゃないのかと思う。人を争わせるために分断し、やかましい事件を起こし続けその間隙を縫って自分たちにとって都合のいい世界に作り変えてしまえばいいと。

とまあ、ここからは都市伝説系にお任せするとしましょう。

もしパンデミックが仕掛けられたものだとしたら、そんなことが理由だったんじゃね?と思って書いてみたのがこれ。

そういうわけで。

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