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レインダイバー

昔、時計仕掛けのオレンジを読んで「雨に唄えば」を聴いていた小説と、夢を思い出して書いてみました。

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 その部屋には、白衣を着た男の後ろに大きな木の扉がドンと置いてあった。作り物なのか否かを確かめてはみたいけれど、たぶんそんなことをしたらまた縄で縛りつけられることになるだろう。
 しばらくカルテを見ていたその男は、ぼくの目線に気が付いたのだろう、にっこりと笑ってぼくを向いた。
「この先がどうなっているのか気になるのかい?」
「え」
「大丈夫。何も怖くないさ」
 そう言って、ドアを開けて電気をつけると、何やら難しそうな書籍ばかりが並んでいる。穏やかそうに微笑んだ男は、ぼくにこのように投げかける。
「それと、今までもそう言って安心させようとしてきた大人は何人も見てきた。そういう顔をしているね」
 驚いた。そのまま同じようなことを考え身構えていたからだ。ただ、唯一違うのはその手にありがちな「お前のことなんか、なんでもわかるんだよ!」というような見下し方をしていないということだった。
「まあ、何が言いたいかっていうとここまで言っちゃっても身構えちゃうよね、ってことさ」
 座ったままのぼくに、饒舌なまでにいろいろと語る彼は、カルテに必要情報を書き終えると改めてぼくに向き直った。
「それでも心を開かない、ってことは誰かから何かを言われたから、かな?」
 彼の言葉は当たっていた。穏やかにとぼけているようで、なかなかに鋭いところがあるとぼくは思う。目で、同意の言葉を送る。
「なら、無理に話せとは言わない。それはこちらの仕事じゃないからね」
 冷淡にも聞こえるその言葉に、ぼくはふいに温かみを覚えた。
「いや、話す。話すよ」
 それまで黙っていたのに、紡ぎたくなった。彼ならば、きっと最後まで話を聞いてくれると思ったから。

 やたらとよく覚えているのが、さわやかな柑橘系の香水とくりっとした目、いかにも女の子っぽい格好をしたおしとやかそうな女だったってことくらいさ。腿から膝くらいまであるニットでできたワンピースみたいな服と、エナメルの靴を履いていてね。なんでこんなに覚えているのかはわからないんだけれど、まあ何が言いたのかというとトラックの荷台には似合わない女だったってことさ。後は、鼻歌で「雨に唄えば」が延々と聞こえていたってことくらいかな。おかげであの歌を聴くと、今でもとち狂っちまいそうになるほどさ。
 途中まで送ってやるよ、って言われて遠くまで来ていたんだけれど、どうしてそうなったのか、なんで逃げているのか。それさえもわからないほどでね。ただはっきりと言えるのは、ぼくが提案したことではない、ということだけ。
「一体何から逃げているんだい?」
「私ですか? 私は訳のわからないものから逃げています」
 よく覚えているよ。それどういう意味なんだい? と聞いてみたくなったからね。ただ、オウム返しにしか返すことができなかったけれどね。
「そうです。訳の分からないものですよ」
「例えば?」
「道理に反することとか、ですかね」
 何やらこの女は禅問答でも語っているんじゃないか、なんて思ったくらいだった。訳の分からないもの、と言われたらまだわかるけれど、道理に反することなんて突然言われてもチンプンカンプンになっちゃうでしょ?
「それで、あなたは?」
 そのうえでそうやって問われてしまったのだから、訳が分からなくてさ。さあ、どうだろうと返すしかない。そうすると曖昧にしか頷かない。そうは言っても、いったいどこまでこれが進んでいるのか皆目見当もつかない。風がやたらとうるさくなってくるくらいスピードが上がってきたトラックの中で、どこまで行くんだと女に聞くんだけれど答えない。さあ、と頬杖をついてぼんやりとしているだけ。
 ようやっとおろしてもらえたと思ったら、どういうわけか次は何もないようなドヤ街っていうのかな。ドアを開けたらすぐに畳と寝るところしかないような、そういう労働者の安宿にいてさ。突然その女が言うわけだよ。
「ねえ、あなたのことを殺してもいいかな?」
 そんなの嫌じゃない? だから、ぼくは全力で拒絶をするんだけれどさ。
「嫌。あなたは死ぬの。そうすれば私ももう逃げなくていい」
 なんて言ってもみ合ってもみ合っているうちに、殺されるってことが分かるわけだよ。そうしたらさ、昔見た映画でなにやら雨んおなかでタップダンスをしているそれを思い出してさ。まるで何やら踊っているかのようなそういう興奮に包まれたんだよ。ああ、そういえば「雨に唄えば」だったな。その時に流れていたのも。
 何とか逃げようとして抵抗するんだけれど、それでも必死の人間の力ってのは恐ろしいもので、結局もみ合っているうちにぼくが上に立っていてね。気が付いたら女の首を絞めていたのさ。あれが動きやすい恰好だったら、どうなっていたかわからなかったかもね。占めていると、口から泡が出てきてグルンと目玉が上へ回ってゆっくりと力が抜けていくのが分かったんだ。すごく恐ろしいことをしたはずなのにさ、手が震えて足が震えて、全身から力が抜けていたのに、股間のそれが勃っていたんだ。
 これが、最初の夢さ。ずいぶんといきなり物騒なものだろう? こういうのばっかりが夢の中に出てきてはぼくを何度となく苦しめているのさ。

 次の夢はどこか南の街で一緒に暮らしている夢だった。ブラウンイエローのアイシャドウが印象的な女だったな。だけれど、これもまたよく覚えている。さっきの女と同じように柑橘系の香水とくりっとした目、さっきとは違ってちょっと派手な柄の薄手のワンピースを着ていてさ。ぼくは朝から港湾労働か何かでクタクタになっていて、女は女で夜の街で男と笑いながら働いている。昭和時代のようでさ、ぼくはドロドロで女は派手派手で。だけれど、いつでも家では「雨に唄えば」が鼻歌で流れていて。
 港で働くやつらからみんなが笑いながらぼくをののしるのさ。お前みたいな男にどうしてあんな女が付くんだとなじる声だな。なじられても答えようがないんだよな。だって、どうして一緒になったのか、どうしてここに流れ着いたのか、そしてどうして女の名前さえも思い出せないのか。それでもぼくは働いたものさ。毎日毎日、まるで馬車馬のごとく働いた。働き終わって酒を飲みながら笑いあっている奴らをしり目に、ぼくはただまっすぐに家へと帰るだけでさ。その音と同じくらいに女が目を覚ますんだけれど、その日はどういうわけか裸になって泣いているんだ。化粧はそのままで。
「どうしたんだよ」
「どうしよう。私、汚されちゃった」
 シーツを見てみたら、血が出ていてさ。すごく痛そうな顔をゆがめて、泣いているんだ。汚されちゃった。もう生きていけないって泣きわめくから、肩を揺すって諭すんだけれど、それでも首を縦に振ってはくれない。なんでかはわからない。ただ、そういうピュアな何かを夢の中でお互いに誓い合ったんだと思う。ぎゅう、と抱きしめるんだけれど、それでも首を何度も何度も横に振るだけでね。私はもうだめってつぶやくばっかりなんだよ。パニックを起こした子供のようで、見ていられなかったって言うのが本音かな。だからのしかかった。
「じゃあさ、またおぼれようよ」
「何するのよ」
「次はぼくとしよう」
 夕方、空が落ちてくる中でぼくと女はしたんだよ。よく覚えている。一回目は突き飛ばされた。それでもなぜだか衝動を止めることができなくて、腹や背中を撫ぜようとしたのだけれど、それさえも拒絶されて。そのまま、ぎゅっと抱き合うとそのまま硬くなった一物を入れたんだよね。いやいや、って首を横に振るんだけれど次第にお互いが気持ちよくなっていくのはよくわかってさ。その瞬間にあのイントロが流れて、それからはまたあのスーツのおっさんがやたらと楽しそうに踊る姿を思い出すんだよ。
 それなのに女は、満たされるどころか少しも女は幸せそうな顔をしようとさえしない。それでもお互いに何かほとばしるものが生まれて、結局は女の中に出したんだけれどね。それでも、幸せそうな顔をしなかった。どうしてなんだろう。思っているときに、きっと女は別の男に襲われて自分が汚されてしまったことが分かってしまった。ただ、その時のほうがはるかに気持ちいいものだったんだ、というのが自分の中で生まれてきたんだと思う。
 それに腹が立ったのが衝動的だったのか。気が付いたらぼんやりと空を見ながら涙を流している女の柔肌に、包丁を突き立ててやったのさ。シーツを汚した血とは比べ物にならないくらい血がドバっと出てね。女はそれで死んだんだよ。ただ、涙を流したままで。そうしたらさ、また股間がむずついて勃っていたんだ。
 これが次の夢さ。

 それからどういうわけか、ぼくと女はデパートの屋上でぼんやりとしていてね。どうやら死んでも死んでも生き返っているかのようでさ。女はさっきとは打って変わって何やら疲れきっていてさ。それなのに、クリっとした目とブラウンイエローのアイシャドウはきれいで、あのニットのセーターの上から高そうなダウンを羽織っていて、見た目は確かに女の子っぽい女の子なんだけれど、その姿とは想像もつかないくらいくたびれていてさ。ぼくもあの女も。きっと結末がそうなるんだろうって思っていたから、へきえきとしてしまっていたんだろうな。
「ねえ、私もう疲れたよ」
「何に」
「逃げることに、そしてその逃げて置いてきたものを思い出すことに」
「道理に反することから逃げていただけなんじゃないの」
「それもきっとこんなに簡単に逃げるためのものではなかったのよ」
 今でも思い出すよ。あの時雪が降っていたんだ。そのせいか分からないんだけれど、一切香水の匂いさえ感じられなくてね。こうしてみると、あの女はいろいろと置いてきたものが多かったんだろう。例えば、家族。例えば、彼氏。例えば、職場の人たち。例えば……。いくらでも挙げられるくらいには、さ。ぼくはその点、最初からそんなものはないからただの気楽な逃避行みたいなもんさ。ただ、それ以上に女という存在が重要なものとなっていたってだけでさ。
「ねえ、私とついてきたこと、後悔してる?」
「最初からしているから心配するなよ」
「何それ」
 とうとう、ぼくたちは現世から去ることになるんだろうか。そんなことを思ったんだ。
「そういうものはすべて捨ててきたってこと」
「ふーん」
 女が近づいたんだ。大きな目に吸い込まれそうになったのを、今でもよく覚えてる。遠くで子供が遊んでいた動くパンダのおもちゃがしんと動かなくてさ。閑散としたもんだよね。思うと、あれは平日のデパートの屋上だったんだ。次はぼくも一緒に死ぬのか、なんておもっちゃったけれどまあそれもいいかと思いながら、ボソッと言葉をこぼしたんだ。
「死ぬときは寒いもんなんだな」
「どうして?」
「どんどんと体が冷えてきて、そちら側の世界へと行くわけだろ?」
「きっと、何も感じなくなるわよ」
「そこにたどり着くまでにはいささか時間もかかりそうな気がしてね」
「本当に死ぬ人はそんなことは考えないわ」
「それはあるね」
「死ぬにはいい日ね」
「ああ、全くその通りだよ」
 そんなやり取りをしてから、女は立ち上がってね。コンクリートでできた床をコツコツとブーツで鳴らしながら歩いていくのが見えたんだ。ぼくはああ、死ぬんだなと思いながら、コツコツとブーツで屋上の手すりへと向かう女を見ていたんだ。手招きされて、その手すりの先を見たんだけれど、そこから先へと続いている金網と下へと広がる世界に怯えてしまってね。その場で腰が抜けそうになったんだよ。にぎやかなはずのデパートの屋上は、まるで何もないかのようにしんと静まり返っている。ぼくと女の二人だけでね。
「腰が抜けた」
「何よ、根性なし」
 そう言ってフェンスを登ってそのままゆっくりと降りて行って。ぼくも無我夢中でついていってね。そうしたら警備員やら店員やらが出てきてワーワー騒ぐんだ。これまでが静かな場所だったから、何やら怖くなってね。せーので飛び降りたことくらいしか、あとは覚えていないんだ。
 アスファルトにたたきつけられるとき? 何も感じない。というか、その瞬間で夢が終わっちゃったから。

 それで、一番最後の夢にたどり着くんだよ。結局ぼくたちは死んだのか生きているのか、まったくわからないまま一番最後の場所にたどり着くんだ。安いアパートで二人で布団を敷いてしまえばもう何もできないくらい狭い部屋でね。それでもなぜだかわからないけれど、張り詰めた気持ちにさえならないままでさ。ああ、このままぼくはここで人生を終えるんだ、という何か確信めいた夢でね。
「最近、仕事大変?」
 女はそんなことを聞くのだけれど、ぼくは首をただただ横に振るだけでね。大丈夫、しか言わないんだけれどそれを心配しているのか、やさしく女は背中をさするんだ。化粧も落として、少しかわいくはなくなっていたけれど、どこかやさしげできれいで大きな目をしていると思ってね。
「昔私ね、吹奏楽部にいたんだ」
「そうなんだ」
「あんまりうまくなかったけれど、楽しかったな」
 遠くで電車が走っていく音がしてさ。その時にふと、彼女が逃げて置いてきたものを思い出して、顔がゆがんだ気がしたんだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
 また、首を横に振って必死に否定して寝るね。そう言って寝たんだ。その時は夢を見なかったかな。だけれど、目を覚ましたら、まだ女は起きていてさ。微笑みながらぼくの腕の中で眠っているんだよ。
「寂しいのか?」
 かすれた声だったなあ。ぼく、聞いてしまったんだよ。一回だけ、彼女は首を縦に振って、また電車が走る音が聞こえたんだよ。その瞬間にまた「雨に唄えば」が聞こえてきてね。思わず口ずさんでしまったのさ。眠たそうに眼を開けて、女はぼくを見るんだけれど、またぼくの胸の中でとろけていくのが分かるんだ。ふっと幸せがよみがえるんだけれど、もう逃げなくてもいいのかなと思ってね。言葉がこぼれたんだ。
「ねえ、ぼくたちは帰れるんだろうか」
「なんで」
「なんか、君がいろいろと置いてきたものを思い出してね」
「そんなの今更……」
「じゃあ、帰らなくていい?」
 首をまた、縦に振った。それは今更というあきらめと、もう何もいらないという強い決意表明。ぼくは強いと思ったけれど、不意に色々とこみあげてくる。最初から帰る必要のない人間と帰りを待つ人がいる人間。何度も死んでも、そのたびに流れる「雨に唄えば」。
 安堵なのか、それとも悲しさなのか。ぼくは静かに一人で泣いて、それからこれまでできなかった心からの愛欲に溺れた。

 のだけれど、それがすべて無意味だったってことに気が付いてね。だってそれらはすべて幻だったから。今となっては女の名前も思い出せないし、どんな姿かたちをしていたのかさえも、一切合切がまるで霧がかっていて何も覚えていないんだ。別にぼくが転生してきたからとか、何か頭がおかしいからなのかとか。そういうことなのかもしれないんだけれど、それでも言葉では形容することができないくらい何やら不思議とぬくもりも体温も全部全部消えて行くのが分かる。ただ、雨に唄えばを聴いてしまうたびに頭がおかしくなったかのように狂っちまうんだよ。

「これがぼくが話すことのできる夢のすべてさ」
 先生は一つも眉一つ動かすことなく、話を聞いてくれた。そして、眼鏡を一回外してから、もう一度かけなおした。
「わかった、ありがとう」
 なんで先生はありがとうなんていったんだろうか。ぼくは何も感謝させるようなことを言ってやしないのに。
「わかっているさ。異常者だって言われることはね」
「そうかな」
 ちょっとごめんね、とキーボードでいろいろと何かを打ち込む先生の姿をぼくはただじっと見ているだけで。その時、ぼくはふっと思うことがある。むしろ今こうして生きている世界でさえも、夢なのではないか、と。
「なあ、先生。今ぼくたちが生きている世界は、夢なのかな」
「それはわからないなあ。そういう専門ではないからね」
「じゃあ、この世界はいったい何なんだろうか」
「それも、分からないなあ」
「なんだ、先生もみんなと同じような答えしか持ってないんだ」
「そうかもしれないね」先生は、ぼくに向き直った。それから続けた。「今ぼくにどうすれば君に的確な言葉が言えるのかを探している最中なんだ。だけれど、この世界が幻かもしれないという可能性は無いわけではないと思うよ」
「すごく曖昧なんだね」
「誰も解明ができないことだからね。この世界が本当にうつつなのか、はね」
「そういうもんなのか」
 それから忙しなく、キーボードを打ち込むと先生はぼくの方を向いた。
「ただ、何十年という体感時間を夢で感じるということはごくたまにあること。その雨に唄えばと香水の匂いから察するに、きっと君は出会ったことがある女性なんだろうと思うよ」
 ただ、それで眠れないのは問題だね。と笑いながら。いくら睡眠薬を試しても眠れないぼくはいったいどうすればいいのだろうか、と思っていると先生は落ち着いたトーンで話す。
「手紙を書いてみたらどうだい?」
「届くわけでもないのに?」
「いつかであった時のためにね」
「気障だなあ」
 先生、もてないでしょう。そういうと苦い顔をして笑った。この人はいい人だなあと思う。だから、分かった。書くよ。そう言って白い封筒と便箋に女への手紙を書いた。

 ここが夢か現かはわからない。ただ、レースのワンピースに身を包んだ女が、騒がしい駅前で一人おろおろしている。電車のガタンという音や、人があっちへこっちへと歩いていくのを見ては何やら慣れない表情で歩いている。見かねてぼくは声をかける。イヤホンからは「雨に唄えば」。外ではパラリと雨が降っていた。
「大丈夫ですか?」
「あっ……すみません」
 そう言って、彼女はぼくを見た。大きな目。ブラウンイエローのアイシャドウ。柑橘系の香水。夢で何度と見た女の姿。これが夢か現かなんてわからない。ただ、今はこの女が幻でないと思っていたい。

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