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【海外記事】縄文土器、炎の中で蘇る

本日はこちらの記事を読んでみます。なお、画像も以下から引用します。

海外の方が縄文土器について語る記事で非常に興味深いです。

ちなみにいつも海外記事を選ぶ際はMediumというサイトのフィードに流れてくるものからピックアップしており、フィードの記事もある程度パーソナライズされているため自分の場合は何かしらデザインに関わる記事が流れてくるのですが、こちらの記事は読んでみたら完全に考古学的な話でした。

個人的には面白く読めているのですが、デザイン系の記事を期待されている方にとってはあまり関心のない話になるかもしれません、。

長い記事なので何回かにわけて記事化させていこうと思います。

本日もよろしくお願いいたします。

縄文土器、炎の中で蘇る

日本の古の文化は私達に平穏にクラスには何が必要なのかを教えてくれます。

世界で最も古い土器は約16000年前のシンプルな丸いポットで、それは日本の関東地方にて発見されました。
その後は同じ地域でもより精巧で装飾的な土器になっていきました。指の爪や縄を泥が乾かないうちに押し付けて模様がつくられていました。実際にその先史時代の文化は「藁の縄の模様」を表す縄文という言葉で表現されました。
これらの土器が最初に見つかったのは1877年、東京に近い大森貝塚跡でアメリカの考古学者であるEdward Smorseによって発見されました。彼はこの時に「縄文」という名前をつけ、それが後に当時この土器を作っていた人々を表す言葉として採用されました。

炎の縁がある深い器 / 縄文時代中期の火焔土器(紀元前3500年から2500年前)

西洋中心的な芸術史においては大抵ギリシャの時の美しさにフォーカスが当てられますが、私はつい最近この驚くべき日本の縄文文化における土器を発見しました。技術的にはギリシャ土器に容易に匹敵するものではあるものの、これらは全く異なるかたちで活用されていました。
縄文文化は日本の北東で15000年前に栄えたもので、およそ10000万年続いたとされています。そのため、彼らはストーンヘンジを作っていた石器時代のイギリスの人々と同年代を生きていたわけです。

最近のストーンヘンジでの展覧会では、同時期に正反対の形で発展したこの2つの文化の違いと相似点について説明されていました。
両方とも太陽の動きをなぞった儀式的なサークルを作っており、それらは季節を示すことと儀式的な意味を持ち合わせていました。

日本の大湯には、縄文時代の人々が数千もの河原の小石を並べて作った2つの大きなサークルがあり、その中に小さく立っている石は夏至の夜明けのような季節行事を示すためのものでした。
ストーンヘンジにおいては、最初の夏の日没の光が直接サークルの石碑に当たるようになっていました。2つの文化は似た島の気候を持ち合わせ、それによって民族の暮らしが発展し、民族的儀式を取り入れた複雑な文化が牽引され、死者を讃える文化が築き上げられていきました。

大湯にある大きなストーンサークルの一つ

縄文時代は自然との共存の中で生きようとしていた狩猟人たちが集まったものでした。近場で狩りや植物採集をしながらも常に次の季節や次の世代のために、それらが再び採集できるくらいの量を残す調整をしていました。

考古学者は青森県の近くで2021年に世界遺産にも登録された三内丸山遺跡のような当時の居住地を発掘しました。そこで彼らは小さな狩猟道具しか見つけることができませんでした。つまり、そこには人々が争った形跡がなかったのです。そのかわりに彼らは協調性と高度なスピリチュアル性を持った人々である証拠が見つかりました。

そこで見つかった痕跡から、彼らが動物を飼いならしたり農業のために土地を変えたりすることはせず、自然とともに生きていたことを知りました。
これは彼らが生物の多様性に気づき、森林や海岸などの管理者として活動していたということのように感じられます。

しかしながら、その後の縄文文化は半定住的な文化でした。魚をより採集するようになり、稲作も始まりました。
土器は囲炉裏のそばで発見され、火で黒くなっており、食べ物の残骸が残っていたことからも彼らが土器を補完や調理に使っていたことは疑いようがありません。

縄文土器(紀元前3500~2500年前)北関東地方

食べ物を保管できることは冬を越えるためにも強固な社会形成には必要なものでした。また老人や幼児など歯のない人々でも食事をできるようにするための調理器具としての役割も必要でした。
このような年長者の知恵や実践的な知識が長く受け継がれていきました。
自然の価値だけでなく、社会の中でどのように人々をケアしていくのかなども受け継がれました。四肢が傷ついたまま生まれたであろう成人、つまり他人の助けが必要だった大人の痕跡が残っていることからも、社会の中でいかに助け合いが形成されてきたのかがわかります。

土器は実用性とは別に精神性や日常の中に存在するものたちの美しさを表現し、それらは儀式のためにより大きく、より精巧に作られるようになっていきました。
縄文時代中期(約5500年~4500年前)には、日本海側の北陸地方で大きく特徴的な炎の口の装飾が施された土器が出現しました。

多くの時は女性によって作られたものと考えられています。これらの印象的な土器を作るには、土同士を重ねて、おそらくより深い土器を作るための支えを用いて、その土に縄を押し付けて印象的な紋様を作っていたものと考えられます。これらの製作工程に20~30時間かかったであろうことを考えると、この文化がいかに堅牢性や美しさに価値を見出していたのかがわかります。

縄文土器の炎の造形 / 新潟県篠山にて発見された火焔土器(紀元前3000年)

安定感があり美しい形状の土器は歯や渦巻きが容器の口を超えて伸ばされ、土器が作られる過程の炎のエネルギーを表現しているかのようです。
大きく開いた炎は土を乾かして固めることに活用され、それらは500℃にものぼりました。
その美しく荘厳な形状は、自然の中にある力の流れを表現するものでした。

見た目にインパクトのある火焔土器の多くは古代の宝であると今では考えられています。Victoria and Albert Museumのコレクションや大平博物館で展示されている他のポットは、何世紀も後に茶道で使用するために内側に漆が塗られていた証拠がありました。

加えて縄文人は陶器をイヤリングのような装飾品や特徴的な土偶の置物を紀元前4000年から1000年の間に生み出しました。これらの像は小さな手足を備えた球根状の人形でした。これらは高度な装飾が施され、大抵大きくギョロッとした目を備えています。おおよそ15000体もの土偶が発見され、それらはそれぞれに異なる用途があったのでした。

土偶の置物(紀元前1000年~400年前)

→長くなってきたので次回に続く


感想:争いのない時代に文化は生まれる

ちょっとあまりにデザインの話題からはかけ離れていてnoteもあまり読まれないだろうなぁ、と思いつつ翻訳していたのですが、縄文土器についてここまで詳しく知らなかったため個人的には興味深く読めました。

秋田県の大湯など、日本人の自分も知らないような地名が海外の記事から出てくるのがなんとも言えない面白さがあり、かつ自分の無知を思い知らされました。

この記事でもあるように、やはりこれほどまでに高度な芸術性を持った土器を作るためには社会的な安定が不可欠で、古来日本人にはそういった社会を重んじる力や人を労る心があったのだなぁとこの記事を読みながら感心していました。

非常に装飾的でありながらもアジアの仏教とも違う、もちろん西洋の芸術とも異なる、独特の土着的な感性をかつての日本人は備えていたのだとこの縄文土器を見ながら思っていました。

続きの記事でも取り上げられているようですが、こういった縄文土器の芸術性を敏感に受け取ったのが岡本太郎で、彼の中の作品にその遺伝子を見ることができます。

とにもかくにも、日本人が知らない日本の姿がまだまだあるんだなぁと思わされました。東北出身なので、帰省したい際には大湯や三内丸山などまで足を伸ばしてみたいと思いました。


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