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楽しまないといけない

家族のお出かけは楽しみ半分、気が重いのが残りの半分。
これは、私が実家にいたころのお話。


お出かけ、は楽しいはず?

お出かけ、に心が躍ったことがあまりなかったな、というのに気づいたのはつい最近。
ずっと「行ったこと」「そこで起こったこと」は覚えていたのだけれど、その思い出に感情が伴っていないことを自分で認識したのは、本当につい最近。
なぜ、楽しいはず、と思い込んでいたか、はたくさん理由があって、それの全てが出かけたこと、出来事は覚えているけれど、ほとんどの思い出に感じたことが乗っていないのです。
そう、たくさん理由があって。
小学生の頃には父と母が不仲だったので、出かけるときに父がついてくることはほぼなかったのですが、帰ったり用意をしているときにお出かけ先を父に聞かれても行き先を言ってはいけない、と言われていたり、行き先は「どこに行きたい?」と当日の朝に言われて、挙げた候補地に「それは遠いからこの時間からは行けない」「そこは面白くない」と言われたりとか。
もちろんその候補地を選ぶ手前には、どれくらいお金がかかるかも踏まえたうえで選ばないといけなかったりして、まず出かけるまでに気分がげんなりしてたんですよね。
お出かけするよ、と言われた時がピークで、そこから減点方式でお出かけに行きたい気持ちがなくなっていく、といった方がわかりやすいかもしれませんね。
しかも極めつけは、楽しそうにしていないといけなかった、と感じていたんですよね。もしかしたら、母に「楽しくないんだったらもう連れてこない」と言われたのかもしれないし、私が母の気持ちを汲もうとして、そう思っていたのかもしれないし、その両方かもしれない、とは思うけれど。

楽しい、は人に強制されるものじゃない

当たり前ですが、当たり前だと思えなかった。気づいてなかった。
楽しそうな場、大勢の人が楽しいと思う場、は「楽しい」と言わなければならなかった。
そんなシンプルなこともわからなくなっちゃうほど、毒されてたな、と今振り返ると思う。やっと自分でここが言語化できるほどになったのね、と思うし、思い返せば「これをやったら楽しい」と世で言われることをずっと試す時期があったように思う。
反対なんだよね。これをやると自分が楽しいから、だから人にお勧めする、はある。
でも、これが楽しいらしい、だからやってみる、ばっかりはおかしいのだよ。下手な鉄砲数うちゃ当たる、なのかもしれないけれど、当たることの方が珍しい。。
もう人生の楽しみ、そして楽しさから生まれる豊かさみたいなの皆無。。。
ちなみに、楽しい、と快楽、は違うからね。

母は自己中心的な人だった

これはたぶん、本人の自覚はないのだけど、最近も急に「来週休める?お墓参りに行こうと思ってる」と連絡が来るとかあって、そんな社会人すぐに休めない(しかもその週は絶対休めなかった)し、本当に一緒に行きたいならもっと前から調整してくれよ・・・と思ってしまい「その日は無理。他の日なら調整できるかも」とだけ返しました。
すると少ししてから「この日以外は行けるけど、、、どう?」と来たので、「来週なら大丈夫」と返したのに「ちょっと考えるわ」と来てその後、まったく連絡がないという。他の家族に聞いたら、一人で行ったらしいけど。
自己中心的というのもあるのかもしれないけれど、もしかすると未だに自分の付属物と思っている節があるのかもしれないな、と書いていて思ったな。

こうやって、自分の生きづらさの一端がわかると、少しずつ距離をとることができる。けど、生きづらさを感じていても、それがどこから、何からくる生きづらさかわからなくてしんどいトンネルから抜けられない人もいると思う。
自分の生きづらさの原因、自分が悪いんじゃない可能性、高いかもよ?

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