授業構想『やまなし』(光村・小6国語)

 宮沢賢治『やまなし』が三重の入れ子構造だとかどうだとか、そういう話を以前しました。

 じゃあそのことを全て授業に詰め込んで45分間×7、8回程度の授業を成立させることができるのか。現時点ではかなり難しいので回避しようかなと考えているところです。その代替案が必要になります。
 『やまなし』のもう一つの特徴として挙げられるのは、「五月と十二月が作り出す、鮮烈な対比の構造」です。
 入れ子構造の物語を充分に読んだ経験があるのであれば、この代替案に頼らず突っ切っていけたのやもしれませんが、ことはそう簡単に動いてはくれませんでした。そういうわけで、私としては幾分オーソドックスな案にも思える“対比”で授業の骨子を形作ろうと考えています。

 初夏の五月と厳冬の十二月。これだけでも充分な対比ですが、読み様と見様によってはまだまだたくさんのコントラストを発見していけるだろうし、そうしようと考えています。それらをつぶさに見つけていくような“分析的な読み方”、あたかも無辺の荒野の土中から古代生物の小さな歯の欠片を掘り出していくような読み様や見様でいいのだろうかという疑問はこの際一度措いて、いっそのこと子どもたちとその徒労の中の輝きを喜び合うような授業でもいいんじゃないかと思い始めています。だって、そういう授業がしたいから。それが国語の授業だと思っていたから。
 時代錯誤な匂いを鼻腔の片隅で嗅ぎながら、そういう方向性の授業構想をしているわけです。

 さて、広大な文字の荒野に子どもたちを放り出して「この辺りのどこかで未知の生物の歯が見つかるかもしれないし見つからないかもしれないが、とりあえず俺を信じて掘ってみろ。」と言うのは簡単なのですが、それは授業なる営為から遠く離れていますので、なんとかしましょう。
 どこを掘ればいいのか、どこに歯が埋まっているのかの大まかなアタリをつけるために。効率的に確実に歯を掘り出すために。掘り出したものがたんなる石くれなのか歯なのかの区別をつけるために。
 そう、“視点”の話です。

 『やまなし』を彩る対比構造、というよりも対比をなす言葉と言葉の組み合わせ、ペアリングを確かに発見するためには、どこからどのように見るのか、という“視点”が必須になってくるでしょう。……小学4年生『一つの花』(今西祐行)の授業構想でもこんなことを考えていたなあという記憶が顔を出します。そこは6年生用に調整していくことになるので、今後のマエダに期待しましょう。

 国語科、物語の授業に限らずなのですが、人文系教科ではこの“視点”の話をちゃんと煮詰めていく必要をここ最近痛感しています。物語を眺める双眸がどこにあって、どこを見て/観ているのか。真夏のピークが去ったらば、『やまなし』の授業を始めようかと考えています。