教材研究覚書『やまなし』(光村・小6国語)

 この物語教材文に警戒感やそれに類する感情をもっている6年生担当経験のある先生は多いような気がします。何だか難しい教材文だという強固なイメージが根付いているのです。ほんまにそうか? そうでもないんちゃう? いやでもなあ……。という。

 五月の川の底、二匹の蟹の兄弟は“クラムボン”について話しています。二匹の頭上では魚が流れの中を行ったり来たりしていましたが、突然飛び込んできたカワセミによって魚は姿を消します。怯える二匹に父親蟹は、自分達を襲うことはない、と優しく話します。
 十二月の川の底、蟹の兄弟は、どちらが大きな泡を吐けるかで言い争いをします。二匹の夜ふかしを「明日イサドに連れて行かんぞ」と咎める父親蟹。そこに一つの山梨が落ちてきます。川を流されていく山梨を三匹は追いかけます。木の枝に引っかかって止まった山梨を見届けた三匹は、幻想的な光が降り注ぐ水底を帰っていくのでした。

 物語と呼ぶにはやや散文詩的な一面があり、散文詩と呼ぶにはあまりに物語的。そんな教材文です。
 そんな『やまなし』ですが、最大の特徴とも言えるのは謎めいた存在感を放つ“クラムボン”でも、“かぷかぷ”や“ぼかぼか”のような独特の擬音語でもありません。川の底という、本来ならば直接見ることの難しい世界を、そこに暮らす蟹の視点から幻想的に描いた宮沢賢治の描写力でもありません。

 物語それ自体が“二枚の幻燈”として示されている、という点です。

 『やまなし』は、物語の外側にそれを物語る存在が明確に在って、読者たるわたしたちがそれを眺める、という三重の入れ子構造になっています。『大造じいさんとがん』『ごんぎつね』なども、伝聞をもとにした物語であることが明示されていますが、「大造さんのお話は、これでおしまいです。」とか「これがこの村に伝わっているごんのお話でした。」のような、物語を明確に閉じる一文は存在しません。語り手の「これは私がある人物から聞いたお話なのですが……」という導入があり、それ以降は読者が物語の世界に入り込んだ状態で話が進み、そのまま閉じるわけです。ある意味では不可逆的な構造です。まるで『ごんぎつね』で兵十が使っていた“はりきり網”と同じように。読者は物語の中に閉じ込められる、という言い方も可能です。
 しかし『やまなし』は、“幻燈”という体裁をとることによってこの物語による閉塞を打破します。
 「二枚の幻燈です。」という最初の言葉と、「これで幻燈は終わりです。」という最後の言葉があることで、読者が物語に入り込み、幻燈が終われば現実世界に帰ってくることが可能になっています。

 ただ、この三重の入れ子構造であるとか、不可逆性を否定するような物語の構造であることを単元計画や授業構想にどう落とし込んでいくのか、というのはまた別の問題になります。さてはて、どうしたもんでしょうね。