文字を文字として理解できない
とある文章に書いてあった。
年を取ってくると、読書ができなくなるというものである。そこで、音楽ならと音楽を聴いたところ、やはりダメだったというものである。なぜかというと、「音楽」として理解できないからである。
昨晩は、それに似た症状が自分の身にも起きた。読書をしようにも、文字が入ってこない。そこに文字は書いてあるのだ、しかし、その文字が文字として存在していない。ただの羅列でしかなく、意味となっていない。
そういえば、自分の音楽の志向についても似たようなものがあるかもしれないと気づいた。
ここで皆さんに最近、お気に入りの曲を聞いてみるとしよう。
だいたいは、誰かが歌っていて歌詞が素晴らしい、歌唱力が良いといった感想が出てくるのではないか。
なぜか私は「囃子」を聞いている。理由を説明するのは難しいのだが、静かな音楽の兼ね合いが良いと感じている。今の曲を聞いても、あまりピンとこない(これまであまり歌詞を意識して聞いてきていない)のは、音楽を音楽として理解していないからではないか。
そうした、文字、音楽といったものは、なにもそれだけに感じるものではない。どんな動画を見ても、マンガを見ても、景色を見ても飽きてしまうのは、その情報をつなげる回路が弱まっているか、情報過多で渋滞しているなどが考えられる。
全てのものがただの「記号」として存在した時、興味をなくすか、恐怖を生むか、いろんな反応を示すだろう。それは、私たちの理解を超えるものかもしれない。私たちは、「この本は良い」、「この音楽はすごい」といって友達に薦めるがだいたい響かない。それは、回路が異なっているのか、つなげ方に問題があるのではないか。
ソシュールの「記号論」を再度読みながら、そうした世の中のことを考えてみたい。
何をして良いか分からない、そうした世界が来るのももうすぐなのかもしれない。