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短冊に書いた願いごとは、プールの泡にとけて、消えた。

手荷物としては、ややかさばってみえるビニールバッグをぶらぶらさせた、ランドセルを背負った子供が目の前を横切る。

「おー、今日はプール日和だ。楽しみだな!」いってらっしゃい、という挨拶とともに、小学生の登下校を見守るおじいちゃんが、横断歩道を渡る子供に声をかけていた。

小学生になったばかりのころ、わたしはプールの授業がとても苦手だった。今はどうなってるかいるか知らないけれど、わたしが小学一年生のころのプールの授業なんて、本当に遊びみたいなものだった。

水中に沈めた碁石をひろう、だとか、水中で先生とじゃんけんする、みたいなものばかりだった。
そんな簡単なことで、何が苦手なんだと思われるかもしれないけど「水中で目が開けられない」という、かなり残念な理由があった。小学生になるまでプールに行ったことがなかったわけじゃないし、海水浴に行ったこともある。けれども、水中で何かをする、というよりは浮き輪でぷかぷか浮かんだり波打際で遊ぶばかり。水に顔をつけないことが多かった。

そのため、水中で目を開けることへの恐怖心が半端なく、目玉の中に水がブワッと入り込んでくるんじゃないかと思うと怖かった。

水の中に入るのは、どちらかといえば好きだった。水に顔をつけて、息を止めているのも嫌じゃない。でも、水中で目を開けることが、どうしてもできずにいた。ただ、わたしひとりができない、というわけでもなく、何人か同じ悩みの子がいてたので「わたしだけができないわけじゃないもん」と小さな胸をなでおろしていた。

しかし、今年はやり過ごせたとしても、毎年夏になればプールの授業はやってくる。水中で目を開けられないところから進めずにいるわけにもいかないだろう。たいした悩みじゃあないけれど、小学一年生にしてみれば、深刻な悩みだった。

小さな悩みを抱えて過ごしていたある日、母と一緒にスーパーに出かけた。スーパーの入り口には「七夕フェア」と書かれた小さなのぼりが立っていた。その横には笹の葉がついた、わたしの背よりも高い竹の枝が立てかけらていた。「ご自由にお書きください」と、小さなテーブルまで設置されており、テーブルの上にはおりがみを切って作られた短冊とペンが置かれていた。そして、すでに色とりどりの短冊がぶら下がっていた。

「なんか、お願いごと、書いたら?」
スーパーの袋に買ったものを詰めながら、母はわたしにそう言った。
「うん」と小さくうなずいて、短冊の色を選びだす。ピンクか、黄色か。かわいい色がいいなと思いながらも、水色の短冊に目が止まる。水色はプールの色だ。

すでにぶら下がっている短冊には「ピアノが上手になりますように」とか「ドッジボールが強くなりたい」などと書かれている。わたしはその中に紛れ込ませるようにして「プールで目があけられますように」と書いた短冊を結びつけた。

悪天候のため何度も中止になり、とうとう一学期最後のプールの授業がやってきた。
わたしはまだ、水の中で目を開けられないままだった。

「今日も水中で碁石を拾ってみましょう」先生の大きな声がプールサイドに響き渡る。順番でプールに入り、せーのでプールの底に沈められた碁石をひろう。みんなキャッキャと楽しそうな声を出している。次はわたしの番が回ってくる。どきどきしながら、大きく息を吸い込むんだ。
「じゃあ次の列、いくよー。せーの」
先生の掛け声で、とぷんと頭まで水につかる。目はぎゅっとつぶったままだ。
「短冊に書いたお願いは、かなっているかも」なぜか、水色の短冊が閉じた目の前でひらひらと風になびいていた。

そのとき、思い切って目を開けてみた。

目の前はうっすらとにごった水色のゆらめきが広がっていた。クラスメイトの足や、潜って碁石をひろう男の子の姿が、そこにあった。

すぐ近くに沈んでいた白い碁石を、やっとの思いで拾いあげた。白い碁石は太陽の光を反射してピカピカと光っていた。

今になって思い出すと、なぜあんなに水中で目を開けるのが怖かったのかは分からない。周りの子たちの多くは、なんてことない素ぶりでやっていたのに。わたしにとっては怖くてたまらなかった。

べつにできなくてもいいもん、と思っていた。けれど、短冊に願いを書いたことで「本当はできるようになりたい」と考えていることに気づいたのかもしれない。

できなくもいいと諦めていることは、四十歳に近づいた今でもたくさんある。けれども、ただ目を背けているだけなのかもしれない。

短冊に書いた願い事が叶うかどうかは、自分次第なのだろう。



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