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「ごくごくのむ古典」で感じたこと

12月22日、ほぼ日刊イトイ新聞が主催でおこなわれた、

ほぼ日の学校スペシャル「ごくごくのむ古典」に参加してきました。

イベントレポートのようなものは、おそらくほぼ日で後日アップされると思いますので、今回は私が感じたことを書いていきます。

2018年1月から、ほぼ日の学校が始まる、紹介された時とっても参加したい! と思いました。けれど、応募して、運良く受講の権利を獲得できたとしても、仕事の都合でおそらく毎回遅刻することになる(ほぼ日の学校開催日は平日の夜でした。現在募集は締め切りとなっています)だろうし、ときには欠席するだろうと考えると、今回の参加は見送ったほうが良さそうだと思いました。受講したい気持ちがあっても、現実的に参加できないことが多く、「ああ、行けなかった。遅刻した」という気持ちばかりが膨らんでしまって楽しく学べないかも、とも思ったんです。

そのほぼ日の学校のプレイベント的な位置付けとして「ごくごくのむ古典」が紹介され、これはぜひとも参加したい! と思いました。一日ぐらいなら会社を早退しても、まあ許されますしね。

古典を学びたい、という気持ちは今年になってはっきりと沸き上がってきていた、というのもありました。私はこれまで自分で考えた文章を書いて発表する、というようなことはおこなってきていませんでした。ですが、2016年の秋頃から、少しずつ文章を書きはじめました。本を読むのは好きだけれど、書くのなんて私にはできることじゃない、と思っていましたが、徐々に表現したい気持ちが強くなってきたのだと思います。

本を読むのが好き、といってもその種類はとても偏っていました。好きな本ばかり繰り返し順繰りに読み続ける、といったものでした。その順繰りに読み進めるリストのなかには、村上春樹さんの小説がありました。村上春樹さんの小説は、海外の文学的であると書評されることも多いようですが、作品中には日本の古典作品に触れるケースがあります。海辺のカフカであれば雨月物語の菊花の約であったり、騎士団長殺しであれば春雨物語の二世の縁であるとか。雨月物語も春雨物語も上田秋成という江戸時代の読本作家によって書かれたものです。江戸時代に書かれたお話も「古典」と分類していいのか、ちょっとわかりませんが、それでも「昔の人が書いたもの」というざっくりとした定義の上では古典作品なのだと思っています。村上春樹さんが書かれる小説は比喩に満ちているし、読む人ごとに様々な解釈ができるためこの作品はどうだ、こうだ、というつもりは全くありません。ただ、村上春樹さんは上田秋成だけではなく日本の古典作品と、海外のあらゆる文学と音楽をご自身のなかにとりこんでいらっしゃるんだな、と読むたびに思うのです。

そう考えたときに、私は全然古典に対してまったく触れ合っていないなと感じました。それはもう、恥ずかしいほどにです。中学や高校の授業で学んだ程度でしか日本に古典については知りません。ましてや、海外の古典文学は、図書館で借りてみたことはあったかもしれませんが、ぺらりとページをめくっただけで読まずに返却ポストにいれてしまった記憶がうっすらとあります。

古典作品を自分自身の軸にしたい。そうして、上辺だけで作り上げたものではなく、芯の通った物語を書いてみたいと思うようになりました。かなり前置きが長くなりましたが、これが今回「ごくごくのむ古典」に参加したい! と思ったきっかけとなります。

今回、ほぼ日の学校で取り上げられる題材は「シェイクスピア」でした。

まったく恥ずかしいことに、私はシェイクスピアの戯曲を読んだことは一度もありません。タイトルぐらいは知っています。ロミオとジュリエット、ハムレット、リア王……。でも、それぐらいなんです。本当に知らない。

ですが、私が唯一知ってると言えるのは2017年にカクシンハンが演じた「タイタス・アンドロニカス」を観た、ということだけです。ですが、このとき、本当に単純に「シェイクスピアって、おもしろいなあ!」と感激したんです。今まで知らなかったのは、もったいないあ、と思ったのと同時に、「よし、じゃあシェイクスピアの書いたものをみたり、観劇してみよう」と純粋なる興味が沸き上がってきたんです。

「シェイクスピア」のおもしろさとは、一体なんなんだろう? と思ったことも、今回のイベントのテーマと合致していたと思います。

「ごくごくのむ古典」のプログラムとしては、

・橋口治さんによる「古典ひろいぐい」の公演

・シアターカンパニー カクシンハンによるパフォーマンス

・「シェイクスピアをベンチャーする」村口和孝さんと藤野英人さんによるトーク(聞き手として糸井さんと、ほぼ日の学校の校長をつとめられている河野通和さん)

この三つでした。

率直に言って、「時間が足りなさすぎる!!!」と思うほどのおもしろさでした。橋口さんにいたっては、お話の途中で終わってしまって「ええー」と思うほど。でも、「おもしろいと思うなら、自分で読んでみりゃいいじゃん」とでもいうような、突き放された感じもありながら、「こっちの水はあーまいぞ」と、さあ、古典の沼に入っておいでよ、と手招きされているような感覚にもおちいりました。橋口さんのご専門は日本の古典文学なのですが、ものすごく目から鱗が落ちたような言葉がありました。それは、

「古典という魚のなかに歴史という骨が入っている。それを、今の人は骨を抜いた状態でみるからなんのことだかわからない」

まさしくそうだ! と思いませんか? 日本には数々の古典作品があって、少しぐらいは学校で学んだりします。けれど、教科書のなかには「源氏物語」「枕草子」「平家物語」「徒然草」など一緒くたに並んでいます。けれどこのなかで「源氏物語」と「枕草子」は時代背景は同じですが、他のものは違っています。だけど、同じものという認識であることが「古典って、なんだかよくわからない」と思わせる要因なんだと、昨日ようやく腑に落ちました。

カクシンハンの河内大和さん、真以美さん、岩崎MARK雄大さんによるパフォーマンスは、みじかい時間ながらもゾクリとさせられました。河内さんの目つきが変わる瞬間、発声の変わる瞬間、それだけで、会場の雰囲気がガラリと変わってしまったのも、演じる人の力が成せるものなのだと思います。

そのご、カクシンハンの演出家である木村龍之介さんとともに、「ロミオとジュリエット」の一番有名な場面を会場のみんなで朗読する、というものかありました。会場を二手に分けて「ロミオ」のセリフと「ジュリエット」にのセリフにわけてみんなで声を出すもの。これが、ほんとうにおもしろかったです。私はロミオのセリフを声に出してみたのですが、実際に声にだして、感情をこめるというのは、いや、ちょっとした快感がありました。パフォーマンスで一瞬にして会場全体の心をひとつにしたカクシンハンのみなさんの力は素晴らしいな、と改めて拍手を送りたいです。

そして、「シェイクスピアをベンチャーする」というトーク。これも、目から鱗が落ちると言うか、物事の見方、世の中の見方をどんなふうにおこなって、ベンチャー事業を成していらっしゃるのか、投資をおこなっていらっしゃるのか、そのヒントというか、そのものズバリの答えを村口和孝さんから聞いたように思います。

人間を、理解すること。

これに尽きると。実際には「ヒューマン アンダースタンディング」と言われたのですが、人間を理解し、舞台を観る演出家として物事を見たときに、その状況に立っている人たちよりも、先の事がよく見える、それを事業としているのだということでした。確かに、コントで「志村うしろうしろ」といった具合に、当事者には自分がどんな渦のなかにいて、これから先の事がどんな風に転がっていくのかわからない、というのはよくあることです。恋愛でもそうですし、仕事でも、家庭のことでも。だけど、それを第三者が冷静なめせんが観たときに「これは、こうなっていくだろう」と感じ取れることがあります。情がこもっていると難しい場合も多いと思うのですが、明らかに客観的な目線としてですね。村口さんや藤野さんは「投資家」としての目線です。人間がどうしていくか、どんな風に進んでいくかを世論の声や社会的な状況などあらゆる「風」をみて、どちらに船を進めていくべきかを読む、ということに他ならないのだということでした。もちろん、人間の感情はいくら機械やAIが発達したからと言って単純にわかることではない、ともお話しされていました。

また、この話はシェイクスピアの「ベニスの商人」を投資家としての目線になったときに見えてくるものが明確で、むしろそんな風に描かれたとしか思えない、とも最後に興奮気味にお話しされていました。

あっという間の二時間で、「え? もう終わり?」と思わずにはいられないイベントでした。私は本当に、なんでこれまでシェイクスピアに触れてこなかったのかな? と不思議ですが、逆にラッキーだなとも思います。こうして、新たな学びを持ちながら、創作に活かしていけることの楽しさを体験していけるのだと気がつきました。また、「古典」といって敬遠するのではなく、すべての作品は「ヒューマン アンダースタンディング」なんだ、というところからスタートすればなにも小難しく考える必要なんてないんだなと思います。

まずはこの2017年の年末と、シェイクスピア事始めとして2018年の年始に「ベニスの商人」をはじめとした戯曲を読んでみようと思っています。

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