チャーハンのようなものに、わたしはなりたい。

「今日のしょうチャン、おいしかったなあ」

わたしが小学生のころ、土曜日のお昼過ぎによく交わされていた会話だ。

平日の月曜日から金曜日まで、小学校では給食が提供されていたのだけれど、土曜日は12時頃までの授業で終了し、お昼ごはんは自宅で食べることになっていた。

学校から走って帰って、息を切らせながらテレビをつける。土曜日のお昼は吉本新喜劇を見ながらお昼ごはんを食べるのが常だった。

母親が準備してくれていたお昼ごはんのレパートリーはいくつかあったけれど、俄然しょうゆチャーハン、略して「しょうチャン」だった。

理由は簡単。母が、しょうゆチャーハンが好きだったからである。いつも、母と姉と、私とでお昼ごはんを食べた後、「今日のしょうチャン、おいしかったなあ」と母は必ず自画自賛していた。しかし、私は「うん」と、心の底からは言えなかった。チャーハンは「ハズレの日」だったからである。

小学生のころ、私はあまりチャーハンが好きではなかった。なんというか、「余り物で作られた料理」という気がして仕方がなかったのだ。金曜日の夜にたくさん炊いておいた残り物のごはん。それだけならばまだいいけれど、木曜日に炊いて残っていたごはんも冷蔵庫に入れてあって、それを使っていた。野菜も切って半分だけ残っていたタマネギとか、5センチくらいのこっていた長ネギだとか。チャーハンのために使う、というのではなくてチャーハンに入れて、使い切ればいいかという食材を使っているように感じられたからだ。

そのため、細かく刻んだちくわが入っているときもあれば、ハムが少し残っていればそれも使われたり。「今日のしょうチャンはおいしい」というのは、同じ材料が使われることがあまりないためだ。ちりめんじゃこ、ハム、長ネギという具材の時もあれば、ちくわ、卵、タマネギという組み合わせだったこともある。今日の組み合わせはおいしかったね、といいながら、おいしかった組み合わせで作られることはほぼなかった。ただただ、しょうゆ味でまとめたという共通点しかなかった。チャーハンというよりも「やきめし」と呼んだほうが、どちらかといえばしっくりくるのかもしれない。

小学生の頃は「はずれ」だと思っていたチャーハンのおいしさに目覚めたのは、ここ二、三年のことだ。

駅の側にある中華料理屋さんでチャーハンを食べたことがきっかけだった。

夫と結婚して、今住んでいる家に引っ越してから時々中華料理屋さんでご飯を食べることがあった。中華料理屋さんと言っても大衆中華だ。チャーハン、餃子、ラーメン、ニラレバ炒めといったメニューが並んでいる。

そんな場所でも、私はラーメンや餃子は食べるもののチャーハンは注文することはなかった。チャーハンは家でも作れる。インスタントラーメンなんかとはひと味もふた味も違っているラーメンを食べたい。

夫はチャーハンを注文することもあったし、「チャーハンを大盛りにして、ふたりで取り分けて食べるのもいいんじゃない?」と提案されたりもした。けれど、私は「麺が食べたいから」となぜか頑に拒否しつづけていたのだ。お店でわざわざチャーハンを食べなくてもいい、そう考えていたのだ。

隣の席で食べている家族がチャーハンを大盛りにして、分け合って食べていても特になんとも思わなかった。

ある日、私はどうしても「レバニラ炒め」が食べたかった。大好きな麺類は、なぜだか食べたい気持ちにならず「私はレバニラ炒めと餃子にしようかな」とメニューを見ながら呟いた。すると夫が「じゃあ、おれはチャーハンを頼むから、ちょっとあげるよ」といったので、ああ、うんと適当に相槌をうった。

レバニラ炒めと、餃子二人前。そしてチャーハン大盛り。

ひとくちか、ふたくち食べればいいかと思ってレンゲで取り分けてもらった。「チャーハンは、あんまりいらないから」と言っていた。しかし、そのチャーハンを口に入れた時、「うわ、おいしい」と驚いた。家で作るチャーハンとは、まったく違っている。それこそ「炒飯」と呼ぶにふさわしい。やきめしとは、ひと味もふた味も違っていた。

「おいしい、おいしい」といって、少しだけ小皿に取り分けていたけれど、もうちょっとちょうだい、ともうひとくち、ふたくちとレンゲを運んでいた。

それからというもの、毎回、という訳ではないけれど、二回に一度はふたりで取り分けてチャーハンを食べることになった。

思えばチャーハンは、不思議な料理だ。簡単な料理の代名詞として、一番に名前が挙がるだろう。余り物を寄せ集めて作ることもできる。冷凍食品でも売っていて、休みの日にお家で食べたことがない、という人はいないのではないだろうか? しかし「チャーハン」として料理本にも掲載されていて、れっきとした名前のある料理なのだ。バリエーションも意外とある。レタスチャーハン、カニチャーハン、五目チャーハン。他にも探せばいろいろと見つかるだろう。大衆中華料理店でも作られているし、中華街のような高級中華料理店でもカニや、フカヒレなんかがあんかけになって、とろりとかけられた海鮮チャーハンなんかも提供されてもいる。

おそらく誰の中にも「思い出のチャーハン」があるだろう。自宅で食べた母親の味。休みの日にだけ作ってくれた父親の男の料理。家族でいったお店のチャーハン。ひとり暮らしでつくって食べた、節約チャーハン。デートで訪れた中華街で食べたチャーハン。

ささいな思い出のひとつとして、チャーハンの味は記憶に刻まれている。思い出の一部として刻まれているチャーハンのようなものに、わたしは、なりたい。



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