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すすめられても、読めずにいる本。

会社のポストに、Amazonからの届け物が入っていた。社長宛の小包だったので手渡すと、その場でばりばりと封を開け始めた。

中に入っていたのは、一冊の本だった。

ジャン=ポール・サルトル著「嘔吐」。

「……なんか、ずいぶんと難しそうな本ですね」

思いがけないタイトルに、私はちょっとびっくりしてそういった。社長も「うーん」といってぺらぺらと中をめくってみるもののすぐに閉じてしまった。

「この本さあ、薦められたんだよね」

社長は閉じた本をデスクの上においてそう言った。

「ちょっと前に、高校の同窓会に行ってきたんだけどね。そこに出席してた当時の担任が『みんな、卒業式の日に俺が読んでみろって言った本読んだかー?』って言ってさ。でも、だーれもそんな本の存在すら忘れてて。担任ががっくりしてたんだよね。だから、せめて今からでも読んでみようと思って、取り寄せたの」

なるほど。

サルトルの嘔吐は、タイトルだけなら聞いたことがあるけれど、私だって読んだことはないし、一度も手に取ったことすらない。今、郵便物として受け取って初めて手にしたとも言える。

「先生はなんでこの本を勧めたんですかね?」

私は社長にそうたずねたけれど、社長も「うーん、それもなんでだったかなあ? この前の同窓会では勧めた理由は何にも言ってくれなかったから」そう言いながら首をひねっていた。

これは今年の五月くらいの出来事だ。社長のテーブルに置かれたサルトルの嘔吐は、置かれた位置が微妙に変わってはいるものの、社長が読んでいる姿は見かけたことがない。もっとも、私が先に帰宅した時なんかにちょっとずつ読んでいるかも知れない。そうだとしても、五ヶ月もかかって読んでいるのかと思うと、難解な内容なのだろうかと思わずにもいられない。

人から「この本、すごくいいから読んでみて!」と勧められても、なかなかページをめくれないというのは、私自身経験している。というか、今現在も読めずにずっと家にある。

その本は安部公房の「壁」。

中学三年生の卒業式の日、担任の先生に勧められたのだ。

私は中学三年生の時、かなりクラスから浮いていたし、担任もそれをわかっていた。一時的にクラスの雰囲気が悪くなった時、担任に呼び出されたこともあったが、その時私はガリガリに痩せていたし、あなたの話なんて聞きませんよという態度を取っていた。担任も「君には悩みがあるのだろうけれど、僕にはどうしていいか分からない」とはっきり言われたこともあり、私はクラスでプカプカと浮いたままでいいから、さっさと中学を卒業したかった。

中学三年のクラスには、担任の私物の文庫本や漫画が置かれていた。「学級文庫だから好きに読んでくれて構わないけど、大事に扱うように。一応先生の宝物なんだから」と言って、担任の席の後ろの棚にずらりと並べられていた。

そのラインナップは鉄腕アトムや1・2の三四郎という漫画もあれば、星新一のショートショートの文庫がずらりと並んでいたし、かもめのジョナサンとか、国語教師であった担任の好みが色濃く出たものばかりだった。

私はお昼休みなどは、繰り返し鉄腕アトムを読んで時間を潰していたし、その学級文庫がなかったら、どんな風に過ごしていたのかも分からないほどだ。すくなくとも本を読んでいれば、誰にも話しかけられないし、ひとりで過ごしていても、何も問題ない。

卒業式の日、担任は「この学級文庫においてある本、好きなのがあれば持って行きなさい。先生からのプレゼントだから」と言った。

みんな、鉄腕アトムなどのマンガをもらおうかと棚に群がっていた。私も何か一冊でも、もらって行きたいなと思った。その時、そばで立っていた担任に、「この中で、先生のが一番好きな本って、どれですか? 好きな作家とか」こう聞いたのだ。

すると担任は、迷わずに「一冊選ぶなら、これかな」とぼろぼろの文庫本を手に取った。それが安部公房の「壁」だった。

面白い、というよりもなんだか色々考えさせられる。僕はこの本を学生のころに読んで、難しくて理解できなかった。何度も読んでるし、その度に印象が変わる。担任は、そう言っていた。

なんだか、ずいぶんと難しい本を勧められてしまった……。

単純にそう思ったが、「やっぱり、いいです」とも言えない。

手渡されたその本を受け取って、私は中学を卒業した。

正直にいうと、何度も読んでみようと思ったが、なかなかページを進めることができない。それは三十七歳になった今でもそうだ。一度も読み通すことができずにいる。

担任から渡された本は、実家に置いてあるはずだけれど、何度か引越しを重ねてしまったせいで、記憶は定かでは無い。私の荷物はぐちゃぐちゃにまとめられていて、「ここにあるかも?」と思っていた段ボールは取り出すことすらできなくなっていた。

新しい文庫本を購入したはいいけれど、今だに読めずにいる。


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