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思い込みの底なし沼から脱出したい。

ずっと勘違いしていたことや、思い込んでいたことを「あ! あれは違っていたんだ」と思えるきっかけは、人によって違うだろう。

そもそも、思い込みというやつは厄介だ。自分で決めつけた考えを正しいものだと理解している。そのため、ほかの意見を受け入れるスキがない。もしかすると、勘違いのほうが、まだ少し猶予があるかもしれない。

わたし自身、これまでにも思い込みやら勘違いやらいろいろやらかしてきた。覚えている限りで、一番バカバカしい思い込みは小学生のころ「河川敷には底なし沼がある」と考えていたものだろう。

川なのに沼とはどういう意味か? 今となってはなぜそんな風に思い込んでいたのかも不明だけれど、なんとなく根拠のようなものはうっすらと覚えている。

わたしは高校を卒業する前まで、大阪の北のほう(大阪と京都の境目あたり)に住んでいた。実家はいまもそこにある。

大阪から京都に行くために京阪電車に乗ると、たくさんの川の上を過ぎていく。木津川、淀川、宇治川。電車の窓から外を眺めていると、濁った水がたっぷりと目に飛び込んでくる。川の流れる両側には草がやたらめったらに生えている。春から夏には青々と茂る草が。秋になればそれらの草は枯れて辺り一面茶色い景色が広がる。

幼いころから、法事やらなんやらで京都に行く機会が多く、電車の窓から下に広がる川を眺めていることが多かった。大雨が降ったあとには川の両岸にある植物たちは、川にがぶりと飲み込まれてしまっていて、存在そのものが見えなくなっていた。

川に飲み込まれしまった植物はどうなっているんだろう? 幼いわたしは「川の中にある植物」が不思議で仕方なかった。何も知らない人が今日川をみたら、飲み込まれた植物の存在すら知らないんだと思うと怖くなった。その恐怖心から「河川敷には底なし沼がある」という、壮大なる思い込みが出来上がってしまったのだろう。

この思い込みが間違えだったと分かったのは、実際に河川敷に行く機会があったからだ。

小学五年だか六年のころの遠足で「河川敷で昼食」と、遠足のしおりに書かれていて、ギョッとしたことを覚えている。河川敷でお弁当を食べるなんて、命がけじゃないか! 先生たちはどういうつもりだろう?

あまりにも思い悩んで、先生に「河川敷は危なくないんですか?」と質問した。先生は不思議そうだったけれど、「まあ、雨が降ったあとには水たまりとか、ぬかるんでるかも知れないから、気をつけないとね」と言って笑っていた。ぬかるみ程度で済む問題じゃないだろう……。わたしは、かなりうたぐり深くあまり遠足が楽しみじゃなかった。クラスのみんなも、両親も何も心配していないけれど。もしも、底なし沼に落ちたらどうするんだろうと不安しかなかった。

結果的に、遠足でわたしが非常に恐れていたことは起こることはなかった。みんな楽しそうに河川敷で遊んでいて、どうやらこの場所に底なし沼は存在しないらしい、とようやく理解した。(わたしはまったく楽しめなかったのだけれど……)

思い込みや勘違いを引き起こす原因は、本当に他愛ないものだ。不安や心配なことから目を逸らしたくて作り出してしまうものもある。
自分の思い込みを改めるには、なかなか難しい。長年思い込み続けてしまっていたら、なおさらだ。

ただ、ちょっとしたきっかけ、例えば実際に河川敷に行くことになったみたいに、固まった思い込みを溶かす出来事があれば、ガラリと価値観が変わることもある。自分の信念に関わるほどの思い込み、というのも中にはあるだ。

身体を動かして思い切って体験してみたり、いろいろな話を聞いてみる。ガチガチに固まってしまう前に、柔らかく動き続けていると、自分の思い込みをはるかに上回る、面白い出来事に出会えるにちがいない。





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