補語
思考をそのまま出力した薄暗い手記。
基本的にあなたの人生の役には立たない備忘録です。
主にPixivに上げている漫画に関する雑記
うちよそ文化に馴染もうとしては失敗している お久しぶりです 補語です 画像はうちの子(UTAU音源)です うちよそ(うちの子よその子の略、自作キャラクター同士で様々な関係を創作する合作の一形態)、やった事がありますか?私は何度か内輪でやり、その全てにおいて自主脱退や関係性自体の破壊を繰り返してしまったため、相手を傷つけないために基本的に関わらない事を決めています。 それにしてもまあ私のうちよそ適性のなさは酷い。どれだけ世界観や周りの動きにそぐうキャラクターを考えて出し
暗い話ばかり描いているのにも関わらず「キャラクターには不幸になってほしいですよね」などと言われようものなら恐らく高確率で「何を言っているのです 誰にとっても不幸などない方がいいに決まっているでしょう」と返してしまうだろうと思う 私が暗い話を書いている理由はそういったフェティシズムというよりも…何というか…「こういう話がこの世に存在していると自分の精神が休まるから」でしかないからだ 存在して欲しければ別にそれが悲劇でも喜劇でも構わない 自分のニーズに合わせて作りたいものを作る
自作音源「ム乃」を放牧しました ひつじです ビームも出ます 原曲:呆 UST:ピフ優 調声:補語
周囲がどのような環境であろうと何かうまくいかない事があればまず周囲への怒りを募らせていく外向性のダークサイドのような人間はいて、そういった方がたまたまインターネットなどで「恵まれている」とされている属性を持っていると袋叩きに…という事はある気がする
大分堂々と歌うようになってくれました
やることが多い
コミュニケーションには「得の等価交換」という側面があるが、「信頼の等価交換」でもある 気がする 両輪で初めて均衡が成り立つというか…まあつまり平たく言うと「互いに互いの益を考えて行動し、信頼構築をする」という事だ コミュニケーションが「得の等価交換」である事のみ認識していると問題が起きやすい気がする 「相手の得になる事」はできても「相手に誠実な態度」が取れない(この二つはしばしば同一視されるが、私は全く別の事である気がする) 受動面では「どうせ誰も彼も私のお返しを待っ
鼻詰まりがあまりにひどいので二度と鼻づまりになれない体に改造してもらおうとした所、なぜ鼻が詰まっているのかわからないほど綺麗な鼻環境であると言われたため、持病の全てが原因・対処法不明の新種の奇病である可能性が浮上 退きなさい 私が新人類です
創作者でありながら、何なら創作で紛いなりにも日銭を稼いでおきながら巷の創作讃歌がほぼ理解できないのがコンプレックスだ 例えば「『どんなときでも描いてきた』『いつだって救ってくれた』のようなキャプションと共に出される、泣きながら食らいつくように絵を描く絵」などの良さが本当に理解できない 私だって抑うつが酷い時は「何も描けなくなるのではないか」という不安に駆られ、縋るように絵を描いている時がある その時私にとって絵は救いでしょう ですが、だからこそ、自らの属性がエモ消費される
諸事情で短文集です 昔から、自作キャラクター同士を交流させるいわゆる「うちよそ」適性がまるでない そういったコミュニティに入れてもらっても毎回陸の孤島のようになる キャラクター自体は自分なりに絡みやすそうなフックを持ったキャラクターを都度作っているつもりなので何故毎回陸の孤島のようになるのかがいまいちわからずにいる もとより交流には不向きな性格なので私の人格がコミュニティ内の方に毎度迷惑をかけているせいで敬遠されている気がしてならない こちらが不文律を知らないのと対人恐怖
ありがたいことに多忙です 学生時代の不適応の原因についてなんらかの知見を得たのでいずれ書きます
私は自認の上では自虐的だ 卑屈と言っても過言ではない というわけで私の自虐の種類について今回は考えていきたい 何となくだが、恐らく私の自虐は攻撃性…というか何というか そういうものがあるのだろうと思う 自虐それ自体を他者攻撃として使うのではなく、「あえて間合いには入れてやるが舐めた口を利いたら即刻噛み付いてやるからな」という、自虐自体はあけすけだが群れに適応する戦略としてあえて腹を見せる狼のような、ある種の緊張感のある自虐だ 対して私の対極にある自虐というのは…何とい
すごく未整理の表現だが、私には「物語」が存在しない気がする 「普通などない」と気づいてから、ヒロイックな幻想に酔う自分を恥じるようになった小学校低学年の頃から、私は自分を自分の人生の主人公と思えず、かといって自分を客観視しきることも人体の構造上できず、かといって「冷笑」の枠にも入れないままに何にも入れ込めずずっと中空に浮かんでいる という自認でいる 少なくとも 自分を切り売りできる人間には、「自分が自分の人生の物語の中に没入してるから自分を題材に物語を作れる人」と「自分の
私の絵は明らかにデッサンを無視している 実際こういった生命体は存在しないし、そのほうが見栄えが良ければ普通に腕を伸展させたりなどもする だというのに「絵は自由でいい」というような書き込みを見てもかなり他人事として素通りしてしまうし何なら「自分は型を破っている」という意識すらない これはなぜか 考えたのだが恐らく私は「既存のルールを無視している」というよりも「私のルールに従っている」という認識で絵を描いている からかもしれない 「既存のルールを離れ自由にやっている」または「自
いずれ消え失せるであろう全てに価値はなく、ないからこそ自由だし全てを尊重できる と思う なので根本的に「生きていて偉い」という言葉がよくわからないのかもしれない
何というか、自分の創作に他人が必要あるのかがよくわからない 見ていただいて何らかのレスポンスを頂くのはいい(し、あまりのものでない限り受け入れるのが放流した責任であると思う)のです 問題は合同企画などの「他人ありきの創作」を私がしたいのか という話です それがよくわからない 参加する分にはいいのですが自分が元締めになりたいかというと…私はあまりそれを必要としていない気がします 何というか、幼少期より「実行するにおいて他人が絶対に必要になる事」をやりたいと思うことがなかったの