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愚か53

 創作者でありながら、何なら創作で紛いなりにも日銭を稼いでおきながら巷の創作讃歌がほぼ理解できないのがコンプレックスだ 例えば「『どんなときでも描いてきた』『いつだって救ってくれた』のようなキャプションと共に出される、泣きながら食らいつくように絵を描く絵」などの良さが本当に理解できない  私だって抑うつが酷い時は「何も描けなくなるのではないか」という不安に駆られ、縋るように絵を描いている時がある その時私にとって絵は救いでしょう ですが、だからこそ、自らの属性がエモ消費されることと、自らすらエモ消費して憚らない周囲に対する不快感があるのかもしれない 多分余命宣告をされたら余命モノに不快感を感じる そのような絵を描く動機とは何なのか 「苦しいけれど作っています!創作は素晴らしい!」と喧伝することによって何がしたいのか そもそも「苦しいけれど」と大好きなはずの創作を一回くさしているあたりも違和感がある 本当は心が離れているのではないか?それならば一度離れた方がいいのに…(人心を解さないロボット)

 創作を何か神のように偶像化して崇拝のようなものを捧げているように感じるのにも違和感を感じる 私は、「創作」の本質というのはあくまで自分自身でしかなく、「創作の苦しみ」の本質はうまく創作できないことにも誰かに制作物を否定される事にもなく(もちろんこれらも苦しみではありますが)、「特に個人的な創作における全ての行為はほぼ100%自分の責任と意思で為される それは『創作を辞める』という決断を下すときですら」ということだと思っている その本質から目を逸らして我こそは「創作という概念」の敬虔な信仰者であると声高に主張して他者にそれを認めてもらう事で自分の「愛」を証明する というのはまあ、弱った時の私もやる所ではあるが、それは「賞賛されるべき事」「尊い営み」などではなく「自分自身とその責任から目を逸らして信仰に縋る、『弱さ』の象限にある情動」であると認識しているためやはりどうしてもそれが賞賛されている様には違和感がある 
 
 これ以外にも、「自分が世界の神様になれる」だとか「誰かの心を動かす事ができる」なども全く理解できない 前者は言ってしまえば幼児的全能感の延長、創作する上でも少し続ければ簡単に通過してしまう初期段階の全能感に過ぎないと思うし、後者は本当に「それだけ」が創作する理由であるなら空っぽすぎて怖い 自分が何を作りたいのかもわからない状態で「感動させたい感動させたい!」とこちらを見る目だけは炯々としているのは心底やめて欲しい せめてその姿勢が何に対しても誠実ではない事だけは認識していて欲しい 怖いので

 という事を考えていると、不安になってくる 一番打ち込んできた分野に関する話ですら情動、感動に水をさすようなことしか考えられない私に人の心はあるのだろうか 私は「人間」でいられていますか?私は「人間」ですか?


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