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愚か50

 すごく未整理の表現だが、私には「物語」が存在しない気がする 「普通などない」と気づいてから、ヒロイックな幻想に酔う自分を恥じるようになった小学校低学年の頃から、私は自分を自分の人生の主人公と思えず、かといって自分を客観視しきることも人体の構造上できず、かといって「冷笑」の枠にも入れないままに何にも入れ込めずずっと中空に浮かんでいる という自認でいる 少なくとも
 自分を切り売りできる人間には、「自分が自分の人生の物語の中に没入してるから自分を題材に物語を作れる人」と「自分の人生含めていかなる物語にも没入できないから自分を題材に物語を作れる人」の二種類がいる 気がする 私は後者だという自認でいる 後者はつまり、「自分の人生を制作上の素材だとしか思っていない人」であり、そういった方は私の学生時代周りにかなりいたため、すごく安心できた記憶がある 対人恐怖でろくに他人と話せなかったが、そういう人が普通にその辺にいるという事実が心強かった
 私は今の所「物語」や「夢」に身を委ねることが下手な人間だ 確かに私も生き物である以上、自分に降りかかる理不尽に整合性、それも可う限り没入感のあるヒロイックなものがあればそれの方へ寄ってしまうだろう だが「物語」や「夢」に身を委ねた私は取り返しのつかないほどの暴力性を帯びる それは防がなければならない その思いから「夢」や「物語」へ傾倒することを意図して制限している だが、それは表現者として他人に「夢」を与えられない ということでもある 見る人に何も与えられない、という事である 「何かを伝えたい」という意図のないただの独り言に誰かの心を動かせるのか と時々考える 特に考えなくてもいい事なのかもしれないが…
 以前は自分に限りなく不都合な「夢」を見ることによってそれを原動力に表現をしていたが、今それができるのかはよくわからない 様々なことを割り切ることができた代わりに誰かに何かを伝えたいと思う心がなくなってしまった 今の私は抜け殻なのだろうか その割には言葉を作ろうとするとそれこそ以前と変わらないくらいどす黒い呪いしか出てこない よくわからない
 
 よくわからないが、良くも悪くも今が私にとって色々なものの過渡期なのだと思う 様々な人と縁を切ったし様々な人と会うようになった できることも増えた 本格的にやらなければいけないことも増えた 最近は自分の直感の性能が意外にもそれなりに良いことに気づいたため、直感を大事にするように心がけている やりたい事をやっていれば収まるべきところに収まると思いたいです


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