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「信じる学習」と「疑う学習」

「身に付ける」ことは良いことだ、という一般論があるからか、勉強とは知識や思考力を身に付けることだと思われている。
が、それだけが学びの形ではない。積み重ねたものをいかに捨てていくかという学習もある。
例えば、食材がある。美味しくしようとして、いろんな調味料を加えて料理したけれど、焼くだけ、塩だけ、がいちばん美味しかったということはよくある。
情報は多いほどいい、と言うけれど、身に付けすぎると身に余るようになる。身動きが取れず身を亡ぼすことにもなりかねない。
成功体験も捨てられない。過去に執着してしまい、今の現実から離れてしまう。
専門知識を身に付けたばかりに、目の前の患者さんを理論の中に当てはめて診てしまうことだって起こる。
自然は大事な地球の財産だと教わったから手を加えないでいるのがいいと思っていたけれど、荒れ地になるだけで人が使えないものと化した。

学習したことを、あえてゼロから検証し直す。うまくいったからといって妄信しない。まだまだ未知なるものがたくさんあると冷静に考えてみる。それこそが新しい次元の学び。
「プラスする学習」がすべてではなく「マイナスする学習」もあるということ。むしろ、学ぶことの本質や、自分にとって必要なものは、マイナスする学習を経て獲得するのかもしれない。
「放てば満てり」という言葉もある。ずっと握りしめているときにはもうそれ以上持つことはできないけれど、手放した瞬間に何でも手に入る余裕が生まれる。息は吐かないと入ってこない。
新たに学びを加えていくには、すでに学習して習得したものを意図的に手放してみる、あるいは意識の外へ追い出してみる、という訓練が必要になる。せっかく身に付けたのだからとそれに執着してみたり、その都度に必要な出逢いを見逃すことになっては学びがとても狭いものにしかならない。

プラスする学習とマイナスする学習を別の言い方で表すと、それぞれ「信じる学習」「疑う学習」と言い換えることもできる。
信じる学習は「習う」こと。まずは教えてくれる相手を信じて、言われたとおりにやってみる。知識や選択肢が増えれば考えられる範囲も広がる。だから相手を信じる。
疑う学習は「問う」こと。今までやってきたことに満足せず、より高いレベルに向かうために自分自身で「これがベストなのか?」と考えてみる。「ほんとうに、そうなのか?」「それでいいのか?」「答えと諦めをすり替えていないか?」いろんなチェックが自分を成長させる。だから自分を疑う。
疑う学習が自分の中で始まるのは自然なことだ。知識も経験もない「ゼロ」の状態で必要な学習と、経験を重ねたうえでさらに上達するための学習は、おのずと違ってくる。より上を目指すにはそれまでの蓄積を上手に壊していくしかない。やってきたことを否定するということは、否定できるほどの自信がなければできないことでもある。
だから、疑う学習は簡単ではない。下手をするとこれまでの自分が壊れてしまうのではないかという不安がよぎり、今のままでもいいのではないかという保身の声も囁いてくる。それらを払拭するほどの積極的な向上心が「問う」には必要になる。
他人に否定されると、否定の後に忍耐や受容の力を高めなければならないけれど、自分自身で否定していくには最初から自覚を要する。自分を肯定するための自己否定、それはこういう場面でしか味わえない。
その意味で、自覚は自分への期待が含まれた自問によって生まれるものだと言える。
信じる学習は他人の力を借りなければいけないが、疑う学習は、問うのも自分、答えるのも自分。無限の孤独の学習は自分を育てる。

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