やっぱり「青春って密なので」の大人だった。
夏の甲子園で優勝した仙台育英高校は、高校野球を変えるかもしれない。
一人の投手が完投もしくはそれに近い展開をすれば、人数に限りのあるベンチメンバーを上手にやりくりでき、そういう投手力のあるチームが勝ち上がっていけると多くの人が考えてきた。ヒーローもそうした過酷さから生まれ、そうした選手をプロチームもメディアも追いかけてきた。
だけど、このチームは5人の投手リレーで全国の頂点に立った。完投型のヒーローはいない。いや、そういうことを指導者が望んでいなかった。
高校生の肩に負荷をかけることへの配慮から投球数の制限が導入されるようになったが、このチームのようにはなから継投でいくのだと決めていれば、投球数に神経質になる必要もない。将来を犠牲にするのか、選手たちの気持ちを優先させるのか、どっちなのだ! そういう外野の声からも離れていられる。
継投策で行くことで、複数ポジションが守れる野手が選出される機会が増えるはずだ。今後は二刀流や三刀流も当たり前になるかもしれない。
そんな新しい野球を考えているのではないかと思われる仙台育英の須江監督が、優勝後のインタビューで素晴らしいスピーチをした。
「青春ってすごく密なので……でもそういうのは全部ダメだダメだと言われて……全国の高校生に拍手をしてもらえたら」
指導者としての意識をわずかな言葉の中に垣間見ることができる。誰もがそう感じたはずだ。
監督自身も通過してきた密だった青春時代。その10代で選手を諦めることやそれでも野球に関わる意味を自分で見出していったマネージャーの経験。そういう人がチーム全員を見守ってきて実感したことを全国に訴えた、「青春って密なので」と。「全国の高校生に拍手を」と。密を避けることしか聞いて来なかった私たちの耳に新しいメッセージが届いた瞬間だった。
仙台育英の選手たちにとっては、どんな大人になっていけばいいのかを考える、身近なお手本だと言っていい。保護者たちは、たくさんのことを学べる環境に子どもを送り出していたことを確認したに違いない。
そんなことを考えながら、優勝決定後の記事を読むともなしに読んでいると、監督はさまざまな技術を数値化して、出場選手を選ぶ際のデータとして活用していると書かれていた。これで選手たちを平等に扱える、という論調の記事だった。
少し違和感を覚えた。技術を数値化して、強く素振りできる選手を選んだり、速い球を投げられる選手を選ぶというのは、どこからも文句が出ないある意味で平等な選抜方法なのかもしれないが、それだけで選ぶならば体力測定上位者が有利だ。野球というスポーツなのに、野球勘とか野球センスとか努力とか影響力といった、数値化できない重要な部分を無視しているような気がした。
ましてや「青春って密なので」と実感している人が、その言葉に反して体温を感じない方法で選手たちを判断するのだろうか、というザワザワした気持ちが拭えなかった。
似た論調の記事は、ほかにもあった。「やっぱり、腹の中では『密な青春』を持っていても、大人数のチームともなれば、ここまでドライな面も持ち合わせていなければいけないのか」とも思っていた。
甲子園の話題も落ち着いた数日前、偶然チャンネルを合わせたテレビのニュース番組で、キャスターが須江監督にインタビューしていた。そこに、技術を数値化する話が出てきた。
監督は言った。「こうして(数値化して)見ると、それぞれの選手は自分がどんな練習をしなければいけないかが分かりやすくなる」。
そうだったのか! 数値化するのは、野球をする自分の姿を客観的に知るためで、筋力アップとか、速く走れるようにするとか、自主的な練習を活性化していくものだったのだ。数値の高い順に選びやすくする成績表のようなものではなかった。
ああ、よかった。やっぱり「青春って密なので」の大人だった。
単純にそう安堵した。
そして、「またか」とも思った。
何かの利益のために事実とは違うことを書く。憶測で書く。自分の理解の範疇で書く。最初に決めた答えに合わせて書く。分かりやすいストーリーで書く。検索されるように書く……。
いつになったら、そういうことと手を切るのだろう。書いている自分にとってプラスになることは何一つないと気がつく日が来るのだろうか。
違和感は往々にして「そのもの」よりも「仲介者」によってもたらされるものだ。