月が見えるためには
同じ先生や師匠や先輩に習いながら、どうしてこうも違うんだろう! と不思議で仕方がない生徒や弟子たちがいた。
片や先生と話が通じる。質問もできるし、時間はかかっても確実に理解を深めていく。
ところが、もう片方は「分かりました」と言うけれど「じゃあ、これも分かるはずだ」と質問してみると怪訝な顔をする。習っていないぞ、と言わんばかり。
理解したという表明を信じれば、この質問にも答えられるはずで、それをもって先生は本当に分かっているのかどうかを確認しようとしている。それ以外には方法がないからだ。
むしろ、先ほどのことが分かって、こっちが分からない、という状況はあり得ない。「右手はこっちです。分かりましたか?」「はい」「じゃあ、反対側のこちらは何手ですか?」「分かりません」例えれば、そんな会話なのだ。
分かりました、が嘘だったとは思わないが、なぜ左手が理解できない? 長く疑問だった。
あるとき、ずいぶん時間が経ってその人が尋ねてきた。
君には左手が分かるのか?
今頃? とそのタイミングにも違和感を覚えたけれど、右手の反対側にあるならば左手だろう? 当たり前じゃないか。そんなことを答えると、言われてみるとそうだな? なぜ自分はあのときそう思わなかったのだろう? と言う。それは私には分からない。
じゃあ、逆に聞くが、と私。あなたはあのときの先生が何のために右手や左手の話をしていたのか分かっていなかったのかい? そう尋ねると、「分からない。右手のことは分かったけれど」と答えた。
もしかしたら、この人は何のために先生が話をしていたのか、何のために私たちが勉強していたのか、そこがないまま、ただこれが右手だと記憶したに違いない。
再度、聞いてみた。「体全体のことを学んでいたんだよ。それを知らずに右手の話だけを理解してどうするつもりだったの? だって私たちはそのためにあそこにいたんだから」
返答がなかった。
言われたことを覚える。それでも「分かった」とは言える。
つまり、「何のために」が抜けたまま「分かる」のだ。
だけど、それでは、「分かる」がどこへつながっていくのか「分からない」。
なぜ分からないのか? そこは先生の問題ではなく習う側の問題だからだ。
人体構造を知って人の病気を治す医者になりたい、だから右手のことを先生に習う。あるいは、絵描きになりたくてデッサンを上手になりたいから、先生に右手のことを習う。そんなふうに、習う理由や目的は先生ではなく自分自身にある。
まず自分に求めるものがあり、そのために必要なことを適した人から習う。それが身に付けばもっと別の人に教えてもらうことも出てくるだろう。いずれにしても「なぜ習うのか?」は先生は答えられない。
だからなのか、と思い当たることがあった。
左手のことが分からないその人は、先生の顔をよく見ていた。一字一句、先生の発言を覚え込もうとしていた。
言っておくと、その人は偏差値の高い大学を出ていた。学習能力が低いわけではない。
私は褒められた生徒ではなかったから、先生の一字一句を覚える気もなく、覚えられる自信もなかった。ただ、要所や全体像を明確に見定めたいとだけ考えていた。
だから、先生が言ったことが分からないと、覚えるのではなく、いろんな角度から質問をした。「ということは、こういうことなのですか?
こういうことなのですか?」「じゃあ、こういうことも言えるのですか?」「それは、こういう場合にも当てはまるのですか?」そうやって先生が言わんとしていることの端っこでも何とか掴み取って、自分の中で立体的な構造を組み立てたかった。
覚えれば、その時だけは何かがインプットされた気になるけれど、いざ自分で解決すべきことが生じた場合に、暗記したことをニセ念仏のように唱えたところで何の役にも立たない。そんな自分をだますようなことは選択肢にはなかった。
ずいぶん経ってから、ある言葉を知った。
「指月(しげつ)」
月を指さすという意味だが、禅の世界では、「月」という本質を「指」が指し示している姿のことだ。指が本質ではない、間違えるなよ! と、わずか二文字で言い表している。
私たちは指を見て理解した気になってしまう。指は単に手段であり、ヒントであり、知らせる先生でしかないのだけれど、先生を答えと見て、顔ばかり凝視し、その言葉を諳(そら)んじようとする。それでは、いつまでも「月」の存在に気がつかない。
本来は、自分自身の求めるものが「月」だ。でも、求めるものが自分にないと「指」がそれにすり替わってしまう。先生が自分になってしまうのだ。よくあるケースだ。
求めるものがあれば、右手のことを習った瞬間に左手のことは想像できるはず。
たくさんの「指」を利用すればいい。しかし、「月」は自分で明らかにするものだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?