見出し画像

感情の先へ自分を連れていく

そうしたくないと思っていても、他人を憎んだり恨んだりする瞬間が出てくる。すぐに忘れてしまえればいいけれど、負の感情ほど長びく。
人間なのだから、憎しみや恨みをなくすことはできない。だけど、ずっとそれが頭の中を絞めている状態はとても苦しい。自分自身が疲弊していく。他人にその問題を引き起こした原因があるとしても、「あいつが悪い」というそのネガティブな感情に支配されてしまうのは自分だけで、あいつは痛くもかゆくもない。
無理やり何かをしようとしても、ますます自分を貶めることにしかならない。そんなことより、自分自身がこの経験を機に変わっていくほうがポジティブな人生になっていく。

どうしても沸き起こってしまうものだとしても、憎しみや恨みに囚われて心身が疲弊しないようにするには、方法は一つしかない。
自分の「本来」を見つけること。考え方や存在の仕方のクオリティをどんどん高めていくことで、最終的に自分はどうありたいのかを確認して、自分の感情の操り人形になることをやめていくのだ。
よく言われる「他のことを考えて気を紛らわせる」というのは、言うほど簡単ではない。楽しいことを考えても、趣味に没頭しても、気は紛れない。ネガティブな感情は、それほど強力に自分を縛り付けるものだ。
むしろ、ネガティブな感情ほど学校の宿題みたいにちゃちゃっと終わらせてしまって、その先に待っている充実した時間をたっぷり取るほうがいい。
ネガティブを通過した先にあるのが「本来」の自分だ。

例えば、飲酒運転事故の犠牲で子供を亡くした親が、「子供の命を無駄にしたくない」と、飲酒運転禁止の法律をつくる運動に立ち上がったり、ガードレール設置の活動をしたり、という具体的行為へ展開していく例は少なくない。事故直後は飲酒運転の加害者を憎んで、この世から車も酒もなくなってしまえ! と思ったかもしれないし、長い裁判を闘ったかもしれない。
けれど、亡くなった子供から願われていることに意識を向けたとき、本来の自分の行動は、加害者を憎しみ続けることでも世の中を恨み続けることでもなく、二度と同じ悲しみを増やさないことなのだと知る。ネガティブな感情を素早く通過させる賢明な方法とは、そういったことだ。
ネガティブな感情に引っ張られている自分を反転させるには「本来、何をすべきなのか」という考えのほうから自分を引っ張ってもらうのだ。
東京・池袋で起きた高齢者の暴走運転事故で妻と娘を亡くした男性は、気がつくと加害者への憎しみで頭がいっぱいになっていたけれど、自分が本当に考えるべきことは妻と娘のことであるはずだ、と気づいたと語っていた。
時代をさかのぼると、水俣病訴訟の原告団で過激な言動を行っていたある被害者遺族の男性は、国という得体のしれない敵を相手に闘争することや恨みを持ち続ける自分自身への疲労感から「きつい」と言い、訴訟団を離れてしまった。裏で賠償金の約束を交わしているんじゃないかとあらぬ噂を流されたりもしたけれど、最終的に男性は「舫(もや)い直そう!」と訴え始めた。社会を、恨みではなく、ましてや文明的な絆でもなく、それらを超えたつながり、いや むしろ原初的な人のつながりで結び直そうという意味だ。企業や国から賠償金や謝罪を受けることが犠牲者の本来の願いではないと気づいたのだ。

憎しみや恨みを抱いたとしても、そこに留まってはいけない。感情は執着を生み出す。執着は自分を縛り始める。そこには不自由という苦しみ以外何もない。
感情は捨て置き、その先へ自分を連れていかなければいけない。自分の「本来」は感情に留まって執着していることではなく、この経験を何かに活かしていくことであるはずだ。それは何か? と探し求めていくことが役目だ。それが自分への期待でもあるはずだ。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?