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「創造的緊張」から考える差別問題

最近噴出している様々なジェンダー関連のニュースを見ていると、前職の役員の方が言った言葉を思い出す。

「大変な時代になっちゃったよねぇ。下手に何もいえないな。」

何もいえないといいつつ、時おり差別的とも取れる発言をする人だった。
悪い人では決してなかったので、おそらく全く悪気もなく。

確かに今まではあんまり問題にならなかったことがいきなりダメになる、という意味では中々大変な部分があるのだろうな、というのは想像できる。

同時に、この方にとって差別的な発言をしてはいけないというのは、ポリティカル・コレクトネスなんだなぁ、という印象を受けた。
「世間の要請というのは従う“べき”ものだから、とりあえず従う」
話しているとそんな受け身な姿勢も感じられた。

「とりあえず従う」は逆に問題を悪化させている?

この問題について考えている内に、この「とりあえず従う」というモードが却って問題を悪化させているのではないか、という気がしてきた。

差別的な表現というのは、それにふれた人の尊厳を深く傷つける可能性が高く、とにかくそういう表現をするなというのは全くもって正しい要請だ。
「今時そんな発言するなんて、ダサい」といった空気感をつくっていくのも、価値観をアップデートしていくための大切なアプローチだと思う。

しかし同時に、世に出てきた発言というのは、その人自身の認識あってのことなので、その認識が変わらない限り根本的に変わっていないのでは、という懸念も日に日に大きくなっている。

「とりあえず従う」というのはある種の思考停止でもあるので、そこから先の思考を深めていくのがなかなか難しい。
その結果本質的な議論が出来ず、結果としてよい方向に進まない、そんなスパイラルを生んでしまっているのではないか、というようなことを考えている。

「創造的緊張(Creative Tension)」から考える差別問題

この問題を考えるにあたって、「創造的緊張(Creative Tension)」という概念がヒントになる気がしたので少し考えてみたいと思う。

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▲創造的緊張(Creative Tension)の概念図(Image by Kelvy Bird)

少し長いが、『学習する組織』の著者ピーター・センゲのエッセイ(翻訳)から文章を引いてみる。

創造的プロセスはビジョンと現実のギャップによって力を得る

創り出したい何かを想像するとき、私たちは未来のビジョンを心に描いているが、それは同時に、今あるものとの潜在的な違いをも呼び起こす。創造的な芸術家はみなこの原理を心得ている。ロバート・フリッツはこれを「構造的な緊張」と呼び、ビジョンを実現しようと行動を起こすことによって解消できることだと述べている。ビジョンと現実の間に生じるギャップを埋めることは、創造的な芸術の本質である。芸術家は素晴らしいアイデアを現実のものにしなければそれを認めてもらえない。「ビジョンを現実のものにする」ということは、社会や政治、企業における偉大なるリーダーシップの本質でもある。

しかし、ビジョンと現実の間に生じるこうした緊張に不安を感じる場合もある。そのため、「クリエイティブ・テンション」(創造的な緊張)が「エモーショナル・テンション」(感情的な緊張)となり、私たちはしばしばそこから逃げ出す方法をあれこれと模索する。エモーショナル・テンションを軽くする一つの方法は、単に真のビジョンを低くして夢をあきらめ、「現実的な目標」だけを目指すことである。こうすれば不安な気持ちは和らぐかもしれない。だが同時に創造的なエネルギーも損なわれてしまう。
https://www.change-agent.jp/news/archives/000170.html

つまり
ビジョンを明確にし、コミットメントすること
今の現実を真正面から見据えること
の両者がある結果として、創造的緊張が生まれ、ビジョンが実現されるのだ。

歴史を振り返ると、ガンジーもキング牧師もRBGも、この二つを存分に兼ね備えた上で「人が尊厳をもって生きる」というビジョンの実現に向けて、いのちを捧げた人だった。

キング牧師については、センゲの講演動画(翻訳)においても述べられているので、もし良かったら見ていただければと思う。

センゲも書いているように、大きなビジョンを持ちながら現実と対峙するのは時にとても辛い。またビジョンを低くすることで一時しのぎの安定は確保しやすいのも確かだ。
しかし同時に創造的なエネルギーも損なわれてしまうというセンゲの指摘は、深く受け止めなければいけない。

一方でビジョンを持ちながら、現実をしっかり見つめないのと、そのビジョンは理想論で終わってしまう。

今噴出しているジェンダーの問題、差別の問題もそうで、
ビジョンを明確にし、コミットすることと、現実と向き合うことは同時に行っていく必要があるのだと思う。

逆に言うと、ビジョンも現実もわからない状態で変化だけ要請されると言うのは、確かになかなか難しいことなのかもしれない。

言ってはいけないというHOWだけでなく、なぜ言ってはいけないのか、それはどんなビジョンを目指しているのか、またそれに対する現在地について、もっと普通の人が話せる世の中になると良いなぁ、と思っている。

マジョリティとは「気付かずにいられる人」

メディアでジェンダー問題が語られる時に、
「〇〇の持っている考え方は時代錯誤でありえない」
「〇〇という組織体質に問題がある」

と問題を外在化して語られる傾向がある。
確かに「本当に起きたの?」と絶句してしまうニュースも沢山ある。

しかし一方で本当に「私は差別していないので」と逃れられる人なんているのだろうか。

社会学者のケイン樹里安さんによると、
「気付かず・知らず・みずからは傷つかずにいられる」のはマジョリティの持つ特権だ。
もし私は関係ないと思えてしまったとしたら、それはただ気付かずにいられるという特権を行使しているだけなのかもしれない。
そうなっていないか、日々自己点検する必要がある。

またケイン樹里安さんは同じ記事で、
気にしたくなくても、気にせざるをえない
のがマイノリティの辛いところである、とも書いている。

だから気付かずにいれる特権的な立場から、勇気をもって声をあげた人のことを嘲ったり、大したことがないと決めつけたりしたりするのは絶対にしてはいけないことなのだ

差別とどう関わっていけばいいのか

最近メディアでジェンダー問題が度々とりあげられるのは、今まで明るみに出なかった問題が外に出るようになったというポジティブな側面もあると思う。

一方でその問題を発生させた当人に処分を与えることが解決のようになっていることがあり、もやもやすることがある。
もちろん実際に傷ついた人がいる以上相応の処分があるのは必要なことだが、その人がそもそもそういう思想・考えを持つにいたってしまったのは、その人のおかれている環境による部分も多分にあるはずだ。

デザインリサーチャーの清水淳子さんが「デザイン教育で思うこと」という記事において、下記のように書かれている。

何かよくないアイディアを実行している人が現れたときに、本人だけを罰するのではなく、その人が身を置いていた風景をみんなで考察して、情報環境をアップデートしていくプロセスが必要なのかもしれない。

私たちは誰しもが、差別する側の当事者になる可能性がある。
私も今までの人生で人を排除するような発言をしてしまったことがきっとあると思う。
しかしマジョリティは「気付かずにすむ人々」なので、中々自分一人で気づくのは難しい。

加えて差別した人を強く責め処分を与えるだけだと、一見差別の芽を摘んだようにみえて「人の尊厳を大切にする」というより大きなビジョンに逆行しているようにも思える。

みんなで考えをアップデートしていくためにも、何かが起きた時に「Weの問題」として、プロセスから丁寧にみていくのは本当に大切なことだと思う。

今後もおそらく様々な場面で差別が表出することがあると思う。
その度に私たちはそれを考える機会とし、おかしいと思ったら違和感を素直に口にし合える関係性や環境をつくっていくことも一つ肝になってくるのかな、と思う。

今私たちができること

差別の問題は複雑で考えることも気力がいるので、そこからら逃げてしまいたくなる自分がいる。

でもセンゲが書いた「創造的緊張(Creative Tension)」の話を読み直し、
辛い気持ちがあるのは、感情的緊張が発生しているからで、ある意味当然
しかしそこから逃げると、創造的なエネルギーが損なわれる
ということを理解した。

もちろん辛い状況におかれている人は、何よりも自分の心身の安全を最優先するべきだし、無理と少しでも思ったら全力で逃げてほしい、というのは大前提だ。

その前提のもと一人ひとりが、自分の問題として、そして「Weの問題として」、どんな社会を作りたいかワクワクしながら考え、同時に時に厳しい現実に向き合う、そんなことを少しずつやっていくことが、世界を大きく変えるきっかけになるのかもしれない。

私も出来るだけ、この問題について考えるためまずは、
どんな世界をつくりたいのか、どんな違和感を感じているのか、オープンに話せる場をひらいていく
差別問題ときちんと向き合うために、どのような構造が存在しているのか勉強する
といったことをやっていきたい。

差別がおきた時、どのように対応していけば良いのか、正直まだまだ分からない。

きっと上述のことをしながら、一つ一つ考え向き合っていくしかないのだろう。

時に辛く大変なプロセスかもしれないけど、色々な人との関わりの中で考え続けていきたいと思う。

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最後にお願い

長い文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
皆さまの貴重な時間を取って頂いたこと、とても感謝です。

最後にみなさまにいくつかお願いです。

1.何か間違ったことがあれば指摘頂けると嬉しいです。
この文章は、差別問題や社会学に全然詳しくない一個人が書いたものです。知識が足りない中書いているので、偏りがあったり、間違ったことが書いてあるかもしれません。
読んでいて違和感を感じたことがあれば、遠慮なく教えていただけると大変助かります。

2.差別問題について考えるための書籍のオススメあればご教授下さい。
恥ずかしながら、ジェンダーや差別問題について、きちんと学んだことがありません。
これからしっかり勉強したいと思っているので、オススメの書籍があればぜひ教えていただけたら嬉しいです。分厚い本でも、オススメされた本は全部読みます。

3.アイディア募集
こういった繊細な問題を普通の人が話せる場所が必要だなぁ、と切に感じています。
これからどんな形で場をひらけるのか、自分なりに考えたいと思っていますが、まだまだ白紙の状態です。

こういうの面白い取り組みが既にあるよ!とかこういうやり方もいいかも?などあれば、気軽に声をかけて頂けると大変喜びます◎

このようなトピックを素人が書くのは、正直気がひける部分もありました。
でも世の中を構成しているのは、私のようなこうした領域の専門家でない人たちだなぁと思っています。
一市民としてどんな風なあり方を探求していきたいか、そんな思いで書きました。感想、感じたことがあれば、それもお伝え頂けたらとっても嬉しいです。

改めて、最後までお読み頂きありがとうございました!


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