自分をルポライターと思い込んで生きる話と心理実験について

以前、YouTubeでルポライターとして精神病院の閉鎖病棟に入院し、潜入取材したはいいものの、そこから実際に出られなくなりそうになった人の話を見たことがある。
本人にとっては、下手したら一生出られなくなってしまうかもしれず、なかなか災難な話だが、とても興味深く、そしてなんとなく自分の中で深く衝撃を受けたというか、割と強めに心に残った。

なんか、思ったのだ。
『ルポライター』っていい響きだなって…。
いや、そりゃそのライターの方は大変な思いをしたのだし飛んだ災難ではあるが、まあそれはそれとして、ルポライターという職業をされている方の身を持った体験談を初めて聞き、ふと自分にある考えが浮かんだのだ。

『自分はルポライターなのだ』と思い込んで生きればいいんじゃないかって。

つまり、何か辛いことや耐えがたい現実をやむをえず体験している時、『自分は原稿を書くために今ルポライターとして潜入取材しているのであって、これは仮の姿の自分が受けている事象に過ぎないのだ』と思い込めば、少しだけ楽に生きていけるのではないだろうか、と。

辛いことがあっても、『自分はルポライターなんだ』と思った瞬間、目の前で繰り広げられているものが、仮想現実みたいになる。

『ルポライター』じゃなくて、例えば『コスプレ』だっていい。『役作り』でもいい。


・自分はブラック企業に勤める女性が主人公の小説を書きたいので、とりあえず今O Lコスプレをして潜入取材している

・上司に無理やり飲まされて酔い潰れてしまったが、中島らものようなアル中の小説を書くために実はわざと飲まされてみていた

・ちょうど主人公が嫌味を言われるシーンを書きたかったので、良い嫌味の『ネタ』をいただいた

・職場で浮いてる人を演じなければならない時にいつでも演じられるよう、『役作り』の一貫として自分から浮きにいっている

などと考えれば、なんか生きていけるような気がしてはこないだろうか。

でも、ちょっとこんな考え方はある意味、寂しいのかもしれないけれど…。

でも、例えば物を書いたり何か作品を作ったりする人だったら、一度はこんな思考になったことがあるんじゃないだろうか。
どんな経験でも、書いたり、作る上でプラスにになるんだって。
辛い経験や悲しい、悔しい経験だって、自分の世界や引き出しを増やす材料になる。
そういう経験をしたから、人の心の痛みがわかって、その分優しくなれる。
なんなら不幸でなきゃ、ものが書けないんじゃないかとすら思えてくる。幸せになったらダメなんじゃないかって。(もしかしたらそんなことないんだろうけど、そう思う時期って作品を作る人は結構あるんじゃないだろうか) 
現に私の場合、一番頭の中に言葉が溢れ出すのは、怒りや悲しみに苛まれている時である。(現実じゃ声に発せないし)

私が好きな、イギリスのMIKAという歌手がいる。
少年のような独特な感性でどこかかわいいポップな世界観をピアノの音色とオペラ歌手のようなハイトーンボイスで紡ぎ出しヒット曲を次々に生み出した彼だが、なかなか売れない不遇の時代を過ごし、『なんでこんなにいろんなことしてんのに僕を認めてくれないのーーー!????』って内容の『グレース・ケリー』という曲を出し、その曲が爆発的にヒットした。

これまた私の大大大好きなアメリカの2人組ロックバンドTwenty One Pilotsも、『誰も聞いたことのない音楽が作れればいいのに、親は寝てないで働けっていうけど、子守唄を歌ってくれてたあの頃に戻りたい』ってな題名通り、ストレスまみれの引きこもりの鬱屈した自我を書いた『Stressed Out』という曲で爆発的に売れ、世間に知られることとなった。(このバンドはアメリカでは割とアイドル的な売れ方をしたが、歌詞がすごく文学的で、ああ、この曲だけで語り明かしたいがここではこれに留めておく)

つまり、どんな辛い経験も、作品に昇華できればハッピーだ。なんか報われる。
昇華とかそんな大そうなことできないまでも、少なくとも人間として深みとか味には繋がるんじゃないかな。

だから、『自分はルポライターだ』と思い込むんだ。
今自分の周りで起こっていることは、あくまで何かに生かすための仮の事象なのだ。

でも、でも…
じゃあ、もしその『現実』という名の『仮想現実』から、出られなくなったとしたら…?

冒頭に述べたルポライターの方は、精神病院の閉鎖病棟に入院し、危うく外の世界に戻れなくなるところだったという。実は潜入取材だと明かしても信じてもらえず、しまいには自分でも自分を疑い出してしまったらしい。

大学の時、社会学の授業で『スタンフォード監獄実験』という1971年にアメリカのスタンフォード大学心理学部で実際に行われた実験を知った。
被験者を看守役と受刑者役にそれぞれ分け、実際の刑務所と近い状況で生活させるというものだ。
被験者たちは次第に芝居と現実がわからなくなっていき役になりきってしまい、実験は途中で破綻してしまったのだが、その内容の悲惨さは当時の私にとって大きな衝撃であり、深く心に残った。と同時に、私は心理実験というものに、とても興味を持った。

人はその状況に置かれると、それが正しいんじゃないかと思ってしまうものだ。
だけど、ここまでいかなくても、これに似た状況はこの世界で常に起こっていることなんじゃないだろうか。
何が偉いとか正しいとか、神様じゃない、人間によって、それもマジョリティーの力によって操作されて作られた概念なんだから。
常に今ある常識を疑っていかなきゃいけないんだと思う。

1963年に発表された『ミルグラム実験』という心理実験がある。
密室で実験の監視役に見られている上で、被験者に『教師』役となってもらい、別室にいる生徒役が問題の答えを間違えるたびに教師役がボタンを押すことにより罰として電気ショックを与えるというものだ。 (実際は電気は流されない)
電気は最初は微量だが、少しづつエスカレートしていく。
つまり簡単にいうと、人は高圧的な監視下に置かれるとどこまで人に対して残酷になれるか、という実験なのだが、結果的に被験者の半数以上が450ボルトまでボタンを押してしまったという。(実験の詳しい内容はここでは語りきれないので詳しくはウィキぺディアなどで…) 
この実験で被験者が監視役に『もうこの実験を続けたくない』と訴えたときに監視役がとる対応のマニュアルがある。
それは『あなたに選択の余地はないんです』と被験者に伝えること。
それで結構な人間がその高圧的な態度に恐怖を感じ、屈して実験を続けてしまうのである。

でも、でも——。
そうじゃないんだ。そうなんだけど、そうなってしまうんだけど、人間は、それだけじゃないんだ——。

このミルグラム実験を現代のシドニーにおいて再現したドキュメンタリー番組を見た。
確かに、高圧的な監視役に負け、かなりの強さの電気ショックのボタンを押してしまう被験者もいた。
でも——。
今でも忘れられず、脳裏に焼き付いている。
番組の最後でカメラに映し出されたのは『選択の余地はないんです』と言われても、『いや、あるはずだ』と涙ながらに訴える人々の姿だった。
よく考えれば、当たり前のことだ。
だけど私たちはなぜか忘れがちなんだ。
自分たちには『選ぶ権利』があるということを。
私たちはなんだって選んでいいはずなんだ。人生だって。
それを忘れちゃいけない。

だから、潜入取材しても、ちゃんと戻れる人になりたい。
目的を見失わないで、人生を切り開ける人になりたい。

今、この文章も、ほかでもない、そのために書いているんだ。

色々例えばっかりになっちゃったし話題がいろんなとこにいってしまったので、伝わるかわからないけど…

私みたいな何者にもなれていない人間は、『それで食えてない』とか『売れてない』という弱みを握られ、いつも悔しさを胸に生きている

いつもいつも、悔しさを胸に、耐えたり戦ったりしている。

はっきり言ってしまえば、『自分はルポライターだ』なんて負け犬の遠吠えだよ、わかってる。

けど、どんなに馬鹿にされても、まだ生きることを諦めたくない。
諦めたくないな。

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