見出し画像

丸山真男の本を読んで リベラルアーツについて思うこと

政治学の泰斗、丸山真男の「日本の思想」は、その考察が優れているだけでなく、読み返す度に「気づき」を与えてくれる良書です。

丸山は、学問に関してよく知られていることとして「日本にヨーロッパの近代科学がどっと移入された19世紀の後半というのは、ちょうどヨーロッパでは社会の組織の上にも、あるいは文化形態の上にも、専門化現象、つまり分業とスペシャリゼーションが急速度に進んだ時代」とし、そういう細分化され専門化された学問は日本では「当然のこととして受け取られた」が、「ヨーロッパではそういう個別科学の根はみんな共通なのです。つまりギリシャー中世ールネッサンスと長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している」とします。

この学問の分化は、日本固有の分化ではないため、専門性を極めるという点においては効果的かもしれませんが、思想的・哲学的な根っこがないため、それぞれの学問において哲学的思索が欠缺していることが、昨今の「リベラルアーツの必要性」が声高に言われる本源的な理由だと私は考えます。

更に丸山は「和魂洋才、あるいは東洋の道徳、西洋の技術といったような二分法をイデオロギー的に受けついだ明治の国家体制にはそうした学問形態の方が都合がよかった」「学問を支えている思想あるいは分化から切り離され独立に分化し、技術化された学問」によって行き着いた先が学問のタコツボ化だとします。

大学レベルで学問が分化すれば、その大学の予備群ともいえる高校・中学の教科はそれと相似形にならざるを得ません。高校の授業では暗記・記憶が重視され、哲学的な思索を学んだり語ったりする場は少ないのは、このような明治以来の日本の学問の成り立ちに遡ることができます。

日本の学問の特殊性について、それぞれ分化した集団をつなぐものの欠如を丸山は言います。ヨーロッパおいては「教会・クラブ・サロンといったものが伝統的に大きな力をもっていて、これが異なった職能に従事する人々を横断的に結びつけ、その間のコミュニケーションの通路になっている」とします。

これは何も学問の世界に限ったことではないでしょう。例えば、会社という集団において、会社という村に「入村」した者は会社の社風に同化することを求められ、同じ時期に他の会社に入った者と没交渉になり、同じ卒業生でも入った会社によってその人物の行動様式までが変わってしまうことを目のあたりにしたことがあります。
会社とは別に地域社会との関係性を失わずにいることができる、そうしないと地域での円滑な日常生活に支障を来すことがある、地方においては会社による「分化」の具合が低いでしょう。

最近は同じ会社で生涯働くつもりで入社する人は少なくなり、機会があれば転職していくことも普通になってきていますから、意識的に会社と一定の距離感を保ち、「分化」した会社という集団が欠如する他の集団とのコミュニケーションを保持することで、タコツボのタコにならないですむ時代だと考えます。

さて、話をリベラルアーツに戻しますと、大学教育だけでなく企業の従業員教育においてもリベラルアーツの必要性が声高に言われています。そこでの議論は、法律・経済・工学・物理というような分化した経験だけでなく、多様な学問を統合した、あるいは包括した「学び」や「経験」や「知」がイノベーションやグローバル展開に不可欠だと、という問題意識から発出しているようです。
リベラルアーツとしての統合の分野はどちらかと言えば「文学部」的学問の領域がスコープになっているようです。歴史を学ぶ、哲学の知識をもつ、アートに触れる、小説を読む、など。
たしかに、海外で仕事をする上では、歴史的視点はいうまでもなく、芸術の話題のキャッチボールが出来ると、仕事の相手方と「ビュー」「価値観」を確かめ合うことができ、信頼関係が深まると経験的に思います。ただ、これはアメリカではなく、ヨーロッパで感じたことであり、歴史が浅くエンターテインメントの国のアメリカでは、野球・アメフト・バスケット・ロックの話題が不可欠でした。

日本においてのリベラルアーツの必要性に異を唱えるつもりはありませんし、そのような経験値を持つにこしたことはありませんが、どこか底が浅いように感じます。
そのようなプログラムを受けたことがありますが、知識として哲学、音楽、芸術、歴史、例えばマキャベリの君主論はどういうことか、などを議論することがありましたが、研修する側もそして議論する我々にもマキャベリの時代的背景や思想に通底する知識が決定的に欠如しているため、深みのある議論にならなかったのです。

哲学もしかり。「哲学入門」という本を読むことは導入としてあるいは目次としては役に立ちますが、読んだ10分後には忘れ去ってしまいます。例えばニーチェの哲学の話題から、ニーチェが一時傾倒したワーグナーの話題に展開し、さらに歴史的イベントの背景に展開できるようになるには、月一回の研修やプログラムでは無理だと思います。

日本の歴史や文化にしても同じことでしょう。中学や高校の段階から、美術と歴史を統合するような教科、それは美術館や歴史建造物など本物に触れる、がないと、歴史と文化を立体的に捉える視座やスキルは身につかないと思います。

明治時代以来、脈々と続いてきた日本の教育をがらがらと変えることは出来ませんから、後発的にリベラルアーツを学ぶということは無駄ではありませんが、丸山が言うところのヨーロッパの「ギリシャー中世ールネッサンスと長い共通の文化的伝統」的なものがない中において、リベラルアーツ、リベラルアーツと言っても、それは受験の暗記勉強のようになってしまうと思います。

「日本の思想 丸山真男 岩波新書 電子書籍版」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?