静止画の価値

動画見放題が楽しい。個人向けにインターネットが急速に普及してきたお陰だ。今から10年前は今ほど安く早く大容量のデータを取り込む事が出来なかった。更に10年前は動画は特別なもの、ゲームを楽しむだけで精一杯。確定ボタンを押すたび通信モードになり時間がかかっては通信代がいくらかかるのか気にしながら遊んでいた。当時は大手通信会社の定額制プランに入っていないとあっという間に通信代が1万円を超えてしまい下手すると10万超え何てことになった人もざらにいた程、携帯代が馬鹿にならなかった。その反動が今来ている。兎に角気になったものは速攻見る。見まくる。今は様々な通信会社ができて数千円で無制限近い感覚でインターネットを楽しむことができてしまう。一番データ量を使うのは動画なので、いくらでも使えるならやはり動画を見てしまう。もう映画館に行く必要もなくなってしまった。あの空間が好きでたまらない人であれば今でも足を運ぶのだろうけど。私も映画が好きな方だけど、もうパソコンでしか観なくなった。音の迫力もノイズキャンセリング機能がついたイヤホンやヘッドホンがあれば充分な迫力で映画を楽しむことができる。お金もかからず道具も2点だけで随分コンパクトになった。とは言うものの、何でもかんでも動画にすぐに食いつくかといったらそうでもない。特に子供の頃から、大人になっても若い頃からファンになった人物はテレビで観るかCDなどの音源を買うか、本や雑誌の発売日を待って買うか、レンタルビデオで観るかくらいしか出会う事はできなかったので、今更ファンだった人の動画が簡単に見られるからといって、そう易々と見てしまった日には「何かが失われはしないか?」と思うのである。自分とは違う世界の人物だからこそファンになったのであってそれが動画で身近に感じてしまえばファンではなくなるのではないか、写真やテレビでもお目見えすることができない作家さんは正に架空の人物であり神様のような遠い遠い存在の人である。そんな架空の人物ほど、近づいてはいけない不安というか、「見てしまったら終わり」のような、自分の人生の中の楽しみがまた一つ無くなってしまうのではないか、という何とも言えない恐れが襲って来てしまうのだ。神様やお釈迦様本人が動画に出てきたらどうだろう。なんか、がっかりするのが既に目に見えてしまう。目に見えない遠い存在だからこそ、ありがたい存在として崇められるし、いつまでも存在する・しないなどと人間が議論したり戦争にまで発展してしまう。歴史上の人物なども写真や文章でしか実際の行いが残っていないから、それ以外のその人の声や表情、性格などそれぞれが想像して話を面白くすることも難しくすることもできる。静止画だけでなく建物や文章など残っているものは既に変えようがないものなのだけれど、それらを通してそれら以外の動く部分(声、動き、表情、匂いなど)は残らないので過去であろうが自由に創造することができる。そういう価値がある。もし神様のように崇められたいと思っているのであれば、何も残さず存在だけしているよ、という噂しか残らない状態が良いだろう。所謂、仙人のような存在。もし人間が地球上に登場してから全部が全部動画で記録されていたら動画を見せられて終了だ。そうなると分厚い教科書も歴史本もいらない。動画を見せられるかデータが保存されたカードを渡されて「あとは各自で見てね」で授業は終了。(それはそれで退屈な授業がなくなって相当楽になるか。)データも無限にコピーされればされるほど価値が薄れる。人から人に特に語り継がれるような事もなくなってしまうのではないだろうか。コピーすれば終わりなのだから。これから文章ではなくデータ記録が標準になれば、個々が想像するような面白い歴史の話も薄れていくのではないか。肉声も表情も色も技も何でも事細かに記録される。そして記録という煩わしい手間が大いに省ける分、今度はもっと未来の創造へとシフトしていくだろうか。それが個人レベルでどんな形になるのかは個人でもっと考えるようになる。
リアルな匂いも動画と同時配信される時代はもうすぐか。

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