BFC5落選展感想 71~89 終


 リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。

 一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。

以下、感想です。


71、「ある夜の出来事」むしまる

殺すところまでは決心していたが、犯罪が露見することまで覚悟しているわけではない。

 描写が詳細で、リアリティが感じられる。死体をバラす場面も、きっとそうするだろう、という納得感があり、文章に信頼感がある。仕掛けも、何も気付かないまま読み進めて、気持ちよくだまされた。
 引用部などは、その特徴が極まっており、得体のしれない納得感がある。思考の断片を捕まえるのが上手いのだろうか。文章を読むだけで楽しい。


72、「鐘」門前日和

 触ったのか、触っていないのか、それが問題だ。……いや、別に問題じゃないか。
 ”少し恥ずかしそうにわたしは頷いてみせた” という一文が一人称のルールを破っているのだが、逆にそのことで、この作品の文章の特徴を示しているように思う。
 今作はある種の怒りのようなもの(制御しがたい衝動?)が、からだの内に鳴り響く「鐘」の音として表現される。それを意識する「わたし」はどこかで自分のことを俯瞰で見ており、引用した文章にその部分が出ていたのだろう。
 ところで、やっぱり、おっぱいに障ったのか、触っていないのか、もう少し書いておいた方が、二人の関係性がよく伝わったのではないだろうか(「彼」と「わたし」のどちらが約束について言及するのか、「彼」は本当におっぱいを触るのか、など)。


73、「或る一週間」指崎

 便意というと、大便をしたくなる気持ちを表す言葉だと思っていたが、小便にも用いることを、今回初めて知った(排便はなぜか大便のみらしい)。
 語り手「指崎」(作者と同名だ)は、用便に人並みならぬこだわりがあり、自宅に小便器を設置する。また大便器では大便を、小便器では小便器を、という使い分けを徹底する彼は、便器や用便にこだわりがある以上に、”小便器”への強い執着があるらしい。
 水曜日、”小便器を愛する”と述べられており、なおかつ、男性のみが使用する小便器に優越感や、それに由来する罪悪感なども感じているようだ。
 中でも、私が面白いと思ったのは、土曜日の”能動的でない排便はクソだ”という一文で、便意のメカニズムが、直腸に溜まった便による内圧の変化によるもの(らしい)であり、心臓を意識して動かすことができないように、腸を随意に動かすことはできない。娯楽や欲望はコントロール(支配)を目指す者なのかもしれない、と思った。

74、「学校より」大江信
 期間限定公開のため、未読。

75、「土曜の朝のルーティーン」阿下潮

 排泄の話が続くなあ、とまず思ったのだが、最後、思いがけないことが明かされて、日常のスケッチだけの作品ではないことが明かされる。ただ、その点には触れたくないな、と思った。最後の三行に悪意を感じる。悪意と言って悪ければ、この語り手は試すような言い方をする。
 前半の描写を遡って読めば、大輔の後始末をして回る「私」の姿が見えてくるが、それを改善したり、是正しようという動きは全く見られない。文句も言いたくない、終わってしまった関係なのだろう。その中でも毒を持ち続ける「私」にはやはり悪意がある、と私は思うのだが……。
 山本七平が従軍時代の不可能命令に直面した同僚の話を著作の中でしていた記憶がある。ゲリラ部隊を殲滅せよと彼の同僚は命令されたが、ジャングルに潜むゲリラと住民の区別をつける方法はなく、末期戦であるその時期に至っては、住民のすべてがゲリラであり、その命令はつまり島の先住民をすべて抹殺せよ、という命令に近しいものだったという。
 遂行不可能な指令を、絶対に拒絶できない状況で命令すると、人間はどうなるか。あらゆる可能性を試すだろうか? 実現可能な現実的な選択をするだろうか? 答えは、何もしない、だった。アンビバレントな状況に追い込まれた人間は無気力になる。そんな話を思い出した。

76、「バース/バース」蕪木Q平
 後述の理由のため、未読。

77、「左胸」中島晴

 古戦場、戦略、淘汰、勝者などの言葉が、小説世界の遠くない過去で戦争に近いものが起きたことをうかがわせる。
 語り手である「私」は勝者(”こうして生き残っている植物も動物もあなたもみんな勝者だ”)の中に自らを入れていないようだ。その違和感が最後に示される左胸の真実なのかもしれない。生きていくことがどういうことなのか、川を人生のメタファーとして、上手くえがいている、と感じた。
 また、機械化した語り手の身体と、川向こうの人影を考えると、生殖可能性がもたらすものの、あまりにも大きなことに驚く。番うこと、子孫を残すこと、それ以外の幸福が探求されたが、その圧倒的な実在感に、すべてが霞んでしまうように感じた。



78、「基準(あるいは「声」)」峯岸

 こういう観念や概念を扱う作品で、異化された言葉以前の状況が既存の言葉に絡め取られると(ここでいうところの「天国」)作品がスケールダウンしたように感じられてしまう。
 特に今作では、「天国」を天国という言葉を使わずに表現することに成功していた(ように私には感じられた)だけに、殊更にその思いが強かった。
 余談だけれど、永劫回帰する時間は、やはり地獄だと思う。いかにそれが幸福感を伴う時間であり、回帰を知覚できなくとも、ひたすらに時間を繰り返すことは耐えがたいことだと感じた。

79、「砂と片影」永田大空
 リンク切れのため、未読。

80、「川柳40句 アセファルは頭でっかちだったとか」ササキリユウイチ

賢い去勢ただし録音機はどかせ

 去勢に賢いも賢くないもあるのだろうか。
 ”ただし録音機は”と続くので、どこか研究室を連想した。実験の一環ででもあるのかもしれない。

厳つい作為おなじ匂いの妹よ

 ”厳つい”は、ごつごつしていかめしい、やわらかみがなく、強そう、の意。”おなじ匂い”というからには体臭が似てきたという話かと思いきや”匂い”であるので、多少、好意的なものが含まれるはず。
 恋人と妹の香水が同じだった、と勝手に誤読しても、それは”厳つい作為”だろうか?


81、「記憶、宇宙、エントロピー」小林蒼

 ”鉄塔の下の噎せ返るにおいのする道路のうえ”
 ”燃えるような西の空の下の青と赤のグラデーションの屋上”
 ”下”と”上”が短いセンテンスに挟み込むように入れ込まれており、興味深い。語り手は狭間に立っている。
 ”システムとシステムのあいだで働く歯車”
 語り手は様々な記憶を語るが、それは恐らく、同一人物のものではない。異なる人物の異なる記憶が、まるで並列に語られる。
 そういった小説的な仕掛けは、思い出すという人間の思考形式を表現するために用いられたということが終盤で明かされる。そして、”ただグーで殴ってやりたいのだ。”という最後の一文は意想外な驚きに満ちていて、魅力的だが、システムとしての小説(今作)に対して、いきなり情緒的であることが腹落ちしなかった。
 思い出すという行為の制約上、イメージの羅列となり、思い出を語るのと違い、ただ思い出すということは、イメージの断片が矢継ぎ早に脈絡なく思い浮かんでくる、ということでもある。思い出す主体を仮構することができれば、そのイメージの断片にも、より明確な形が与えられるのだろうが、今作はそういった道を選ばなかったのだろう。


82、「ある事務所の仕事」OMiya

 冒頭の文体が魅力的だっただけに、そのまま貫き通してほしかった。それに限らず、野良医者というモチーフも同様で、もっと野良医者がどういう存在なのか、知りたかった。もっとショートショート的に、野良医者のワンアイデアを深めていく作品なのか、それとも、野良医者を軸にKや語り手を絡めていく話なのか、でまったく物語が変わっただろうと思う。興味深く、読まされる文章だった。


83、「山本は死んだ」海野是空

 栗山にとっての死が語られた箇所で、死の安売りだ、と感じてしまった。
 ”母親を名乗る他人は具現化した死に他ならなかったのだ。”
 それを感じている栗山の切実さは伝わってくるが、作品としてみたとき、それぞれの見つめた死が浮き彫りになるかというと疑問だった。もちろん、彼らが見た死が一貫している必然性はないが、それこそ山本が見つめた死がぼやけるという意味で、あってもなくてもかまわない一文になってしまっていないだろうか、と勝手ながら思った。
 山本の死との描き方の違いも興味深い。あくまで、山本の”死”はぼかされているのに対して、栗山にとっての”死”はひたすらに断言されている。くっきりとした死の輪郭は、畏れを伴わない、と感じた。


84、「ポスタル・サーヴィス」渋皮ヨロイ

 人間同士の些細な、けれど、重大な行き違いが印象的なモチーフを通して書かれていて、興味深かった。”「一番いらないやつだから」” など痛烈だけれど、芯を喰ったような言い回しも面白く読んだ。
 自分でも気付いていなかったが、不当な理由で他人を嫌う人間を見ると、不快な気分になるのだな、と思った。というのも、舌に切手を張り付けた「彼」が饒舌になり、それに違和感を覚える語り手が次第に不快感を募らせていく場面で、私は同じような不快感を、語り手に対して募らせていた。


85、「今昔巳鼠珏女夜魅師物語」頑飛真一

 いわゆる昔話のような趣の作品。ヘビの恩返しとネズミの仇討ち、とが同時に進行していって、夢中で読んだ。民話の現代風アレンジともとれるし、川上弘美「蛇を踏む」を連想したりもした。ベースとなった話がどこかにあるのだろうか、換骨奪胎の手際が巧みだと感じたのだが、その根拠はどこにもないのだ。
 ドブネズミが持っていた宝石は、街で拾ったものだろうか、と思った。夜の繁華街で忘れられていったり、失くしたりした宝石をネズミが拾って、どこかに隠していた、と想像した。想像して、それはカラスがすることだな、と思った(特に意味はない)。


86、「プールのある展示室」酒井創

 インスタレーションについての話と読んだ。プールの名Kでデニムパンツを履く、というでkの言葉にするとそれだけの行為の中に、生きて帰る物語の枠組みを見つけることができるのが、私には笑ってしまいそうなほど面白い。電流を受け、命からがらプールサイドに戻るのは、死の世界から帰ってきた英雄であり、現世に戻った英雄がまずすることが、履物を探すことなのだから、面白い。
 この展示がもし、巡回するのであれば、ぜひ行ってみたいと思った。


87、「アイルランド」穂崎円

https://twitter.com/golden_wheat/status/1721079610652430794?s=20

 訳詩といえば、堀口大學が好きで、「月下の一群」におさめられたアポリネールの「交代」などが思い浮かんだ。寡聞にして、フランシス・レドウィッジの名をはじめて知ったが、国民国家を暗黙の前提とした近代の矛盾のようなものを感じられて、とても惹かれた。
 訳者がX上に上げていた他の訳文も読ませてもらったが、文語体のものが、より強く、詩の情感(のようなもの)が響いた。
 BFC作品として、という前置きの上で書くが、異なる訳文を並置するような読ませ方も面白かったのではないだろうか。口語体、文語体、本文、それこそいずれかを織り交ぜていく、というのも(そこまでいくと著作権の侵害となってしまうか)。
 ともかく、知れば知るほど、読めば読むほど魅力が増していく詩だと思った。


88、「バード・ストライク」乾あまぐつ

 時系列を操作するという作意が機能不全を起こしているのではないか、と思った。特に、ラストから冒頭への語り手「僕」の感情が繋がらない。というのも、ファミレスに飛び込んできたキジの圧倒的な存在感に、作品が引きずり込まれてしまっている。ガラスを突き破り、テーブルの上で暴れまわるキジが描写されるほどに、語り手を歪めてしまった、と私は感じる。
 のたうち回るキジを尻目に食事を口に運ぶ友人を、薄気味悪い、とまで語る「僕」が、どうしてその一週間後に、鳥打ちをしてまで、友人に食事を取らせようとするのか。もっとも劇的な部分が、結局、作品に書かれずじまいになってしまっている、と私は思った。


89、「逅渚」伊島糸雨

 幻想小説と言語SFの融合。
 漢字へ耽溺しておきながら、扱われているのがポストモダン的な言語パズルであるところに、いささか落胆した。それがどれだけ魅力的であろうと、差異と意味の言語学は、所詮アルファベットを使用したヨーロッパ語圏のローカルルールでしかないのではないか。
 表意文字であり、表音文字でもある漢字を、偏と旁の無限の差異として理解することは不可能ではないが……。


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 以下、全作感想(全作ではないが)を書き終えての感想を記す。また、全作感想を書こうと思った経緯および、趣旨についても述べる。(蕪木氏の作品「76、バース/バース」を未読である理由も冒頭結論部のとおりである)

 まず、結論から言うと、感想とは名ばかりのつまらない粗探しに終始してしまった。元より、作品の良いところを拾い上げる、という心意気で始めたわけではないし、むしろ、そういった向きを敢えて取らないことすら趣旨に含んでいたが、何事にも度というものがある。しかし、その件について、謝罪するつもりはない。もちろん、批判は甘んじて受ける。読解の未熟さも、文章の拙さも、文責はすべて私にある。私の感想に言及することすら厭わしいという方々も、当然いることだろう。僭越だが、私の感想を読んで生まれたフラストレーションについては、ぜひ落選展の作品への感想を書くことで解消していただきたい。それこそが、今回の試みの第一義であったのだから。

 次に、経緯について記述する。
 2023年11月3日に、にわかにBFC5場外乱闘が勃発した。といっても、私が関知したのはその翌日(あるいはそれ以降だったかもしれない)、BFC主催者のSNSアカウントの投稿からだった。主催者は注意喚起とでもいうような投稿を行なっており、私が気付いたときには、騒動はほぼ終わりかけていた。
 その後、私が追いかけた限りで分かったことだが、以前よりBFC落選展の感想を書いていた氏の感想記事に、BFC応募者からの批判があったらしい。当事者間のやりとりは、決別という形で決着していたようだし、私個人として、言及すべきことはないとその時は感じていた(氏の感想については、以前私の落選作も対象となっており、その際、耳に入れると値しないと結論付けていた。氏の名誉のために付け加えておくが、氏の書く感想はひどく誠実で正直であり、その誠実さ正直さが、私とは相いれなかったというだけである)
 当初、応募者の批判に理があるとして傍観していたが、ある投稿を目にして、全作感想を敢行することを決意した。
 その時、私が感じたのは、感想と批評に貴賤はなく、どちらがすぐれていて、どちらが劣っているということはないということ。まして、BFCはあらゆるブンゲイが競い合う場であり、すぐれた感想・すぐれた批評、その逆の見劣りする感想・批評こそあれど、批評こそがすぐれており、感想はそれに比べて劣っているなどという言説には、決して賛同できなかった。批評という崇高な(困難な)営みから逃れるために、感想という語を冠しているのではない。批評と感想とは、異なる文芸であり、そこに求められることもまた異なるのだということを、書かなければならない、と感じた。

 最後に趣旨について。
 「落選展感想1~10」の冒頭に書いたように、騒動によって、落選展感想という営みが委縮することに対する危惧があった。たとえ、どんなに愚かに見えようとも、どれほど不躾な物言いであろうとも、それを遮る権利は何人にもない。
 私は感想を書くにあたって、作品を安易に褒めるような、心地よい言葉に逃げることは極力避けるよう努めた。その理由は、心情的には氏の全作感想を引き継ぐという心持ちだったからであり、読むことそのものが暴力的でさえあるという個人的な信条に基づいたものだ。また、昨今のコミュニケーションにおける、良いフィードバックを提供することこそが、良いコミュニケーションだという通念に対するアンチテーゼとしての意味合いもあった。だが、この試みは結局、失敗してしまった(よりよく欠点を指摘することの困難さを、図らずも再証明する結果となった)。
 感想の感想の冒頭で書いたように、私が意図していたものは、歪んだ形で表出した。感想は粗探しに堕し、私自身、「心地よい言葉に逃げない」を「苛烈な言葉で言及する」へと知らぬ間に変換していた。この点が、今回もっとも反省すべき点となった。

 終わりに。
 繰り返しになるが、批評と感想は異なるジャンルの文芸であり、よりすぐれた感想が批評になる、というたぐいのものではない。それを私自身が、ほかでもない感想によって示すことができなかったことは、慙愧に堪えない。そして、もう全作感想を書くことはないだろう、と思う。反省点は反省点のまま、捨て置かれていくことを許してもらいたい。
 最後に、感想を書かせていただいた作品のすべての作者に感謝を述べたい。
 私の身勝手な感想の対象という不名誉を甘受していただき、有難く存じます。身勝手ついでに、私の個人的な願望を述べさせていただけるなら、作者のみなさまにおかれましては、どうか健やかなまま、書き続けてゆかれることを切に願います。
 これにて、全作感想(全作ではない)を終わります。

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