BFC5落選展感想 1~10

 リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。

 一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。

 先日、にわかに落選展感想の話題がSNS上で勃発し、主催の西崎氏が言及するなど、様々な動きがありました。たかが感想、されど感想。言う人間がいる以上、言われる人間もいる、ということは前提に、もっともよい形は何か、ということを絶えず考えながら、この感想を書いていくつもりです。
 そのうえで、自分のスタンスを改めて明示させていただくと、作者に作品を公開する権利があるように、作品を読んだ人間にも、好き勝手に言う権利がある。さらに、それを批判する権利も。という原理原則の基、自分の考えるもっとも公平な立場は、それでも、お互いが野放図に言い合える場を整えること、と考えます。

 従って、私が危惧するのは、落選展感想という営みが委縮していくことにあります。野放図で、拙く、不躾な感想が批判を受けつつも、数多く、場に出揃うことを望みます。私の野放図で、拙く、不躾な感想が、その一助になれば幸いです。もちろん、そんな私の心配が杞憂であることが一番ですが。

 以下、感想です。

1、「飛来」吉田棒一

 嘘が書いてある、と思った。本当のことは一つも書かれていない。どこか露悪的で、戯画化されている。軽薄で、人を喰ったようで。もちろん、貶すつもりでそう書いているのではない。
 作品が軽薄である、とは思っていなくて。
 軽薄な作品だ、と思っている。
 このニュアンスの違いが伝わっているだろうか。ほかにも、嘘が書いてあること(本当のことが書かれていないこと)が悪いとは思っていなくて、嘘でも本当でも小説は書けるし、面白い作品は面白い。けれど、どこかで不快感(しこり)を残していく作品だとは思っている。
 もっと穏便な表現でいえば、フィクショナルな作品と言い換えることができるかもしれない。円盤がやってきたところは、デウスエクスマキナ(機械仕掛けの神)の登場のように思えた。

2、「めくりの国」津早原晶子

  初読時、二段落目、

父が死んで、私は離婚することにした。夫がなかなか承諾してくれないので、署名捺印した離婚届を置いて、猫を連れて家を出た。私が借りた築35年の部屋で、私は猫と住んでいる。(中略)

 引用部、最後の一文は、猫が主語であるべきだと思った。理由の根拠は分からない。けれど、一目、この一連の文章を読んで、そう思ってしまったので、私にとってはこの作品は猫の話になってしまった。
 この作品はいろいろな出来事が詰め込まれているようで、余白があるようにも感じる。「めくり」について突き詰めたなら、もっと別の話になっていただろうと思う一方で、それは作者の書きたいものとは違うのではないか、と考える。
 何となく感じるのは、作者はこの微温的な世界にどっぷり浸かって、今作を書いたのではないかということだ。戦争も死もある世界だけれど、おおらかな空気が流れているのを感じる。悲劇とのコントラストが美しい。

3、「準急」なんようはぎぎょ

 満員電車で突然大声を出しても、その瞬間は反応があったとしても、乗客はすぐに慣れてしまって、何もなかったようになることを、ぼくらは何故だか知っているはずだ。何人かは別の車両に移ろうとするかもしれないし、大声を出した人の周りにスペースができるかもしれないけれど、99%の人は、淡々と変わらず電車に乗り続け、目的地で下車して、仕事なり何なりに向かっていく。
 作品を読むとき、ぼくは期待を持っている。
 何が起きるのだろう、と。普通とは違うことが起きるのかもしれない。日常よりも面白いものが見られるはずだ、という。
 作品はそんな期待を重たく、黙殺した。
 何かが起きそうだという予感は、作品に黙殺されてしまった。それは作中の叫びと呼応していると思う。そして、そういう黙殺を書いた作品だ、と私は思う。

4、「合掌」野本泰地

 賢しらなことを言いたくない。
 追悼の思いというか、親しい人の死を受容するときの思考の流れのようなものがコンパクトに書かれていて、その情感が伝わってくる。ラスト、魚を捌くという決意や意志が、継承という形をもって、繋がってくるのも、作品の広がりや読後感に作用していたと思う。読者を遠くへ(よいところへ)運んでくれる作品だと思った。

5、「チクビルハーン」枚方天

 こういう読み方は好きではないけれど、現代の比喩としてしか、この作品を読めなかった。固有名が出てくるのは、匿名への批判性のようにも思える。本当はこういった政治性より、作品自身の面白さを読みたかったけれど、自分には感得できなかった。


6、「がまぐちぎょろめのグラム・スピナー」藤井佯(人偏に羊)

 「よだかの星」がどういった話か忘れてしまった。
 架空のアニメーション(恐らく。モデルの作品くらいはあるのかもしれない)をモチーフとしているが、タチヨタカは実在の鳥のようだ。
 タチヨタカは gene ではなく meme によって繁殖していく生き物へと変貌していく。その結末まで導いていく手腕が見事だと思った。ホモサピエンスとタチヨタカの会話(タチヨタカが紙に描かれたタチヨタカを、紙面上に生息する仲間だと誤解する場面)も、読み終わると異化されて、鮮やかに感じられた。

7、「心臓」赤木青緑

 恐らくはメタフィクション。私はメタ認知が弱いので、こういった作品を読むのは得意ではない。私たちが読んでいる文章が、そのまま作中の本の内容となっている作品、という風に私は読んだ。
 冒頭の独特な味のある文章が、次第に落ち着いていくのは、残念だと思った。どういった時に心臓が鳴るのかも冒頭で提示されていて、その展開の仕方が、後半、弱いのでは、と感じられた。

8、「妻が脱皮した」飛由ユウヒ

 ひどく大雑把に要約してしまうと、結婚して数年経った妻の何気ない仕草に幻滅してしまい、その幻滅した自分にも後ろめたさを感じるという、日常のスケッチのような作品と、ひとまず言えると思う。
 勝手な要望を書くと、もう一歩踏み込んで、妻が脱皮することを受け入れられない様子を伝えてほしかったと思った。もちろん、語り手自身、自分でも理由が分からないことを書いているので、そこを書いてしまうと、作品の根本が変わってしまうのは分かっているつもりだ。
 とはいえ、妊活のため断酒している友人の挿話は、そこに対応する部分として書かれていると思っていて、受け入れた友人と、受け入れられなかった語り手の態度が対比されている。その上で、友人の「仕方ない」という諦念と、語り手の「受け入れられない」という受難とはまた別の在り方も見たかったと思う。友人も語り手も、見放すような、突き放すような態度で、冷たい読後感だった。

9、「走る犬」上雲楽

  作品の向こうに、この作品のイデア(というより、作品が書かれるべき理由や必然性、または、作品を書く原動力となった、原風景)のようなものがあり、作者はそれを隠そうとしているように見えた。伝わらなくてもいいと考えているのか、伝わる人にだけ伝わればいいと思っているのか、あるいは、何か後ろめたいことでもあるのか、と無責任な”推理”はいくらでもできる。
 だからだろうか、作品そのものよりも、作品を透かした向こうの方に興味が湧いてしまった。作品に滲み出ている怒りのようなものも、そのフィルターを通してみると、興味深く思えた。

10、「無敵のワクチン」我那覇キヨ

 ラストに差し込まれた、突然の暴力に笑ってしまった。
 順を追って話そう。電車の車内に一組のカップル(男女とも、そうでないともとれる)がいて、語り手である「わたし」はあるコンテストに出す小説を書いている、というところから今作は始まる。
 作中のコンテストはBFCをモデルに書かれていると思われる。作中の言葉に従うなら、コンテストは毎回、場外乱闘も含む激しいものとなっており、「野蛮なお祭り」とも称される。
 一方で、「わたし」はコンテストを「なんにもなくっても楽しい」を指向していると考えており、その考え方は「わたし」にとって、パートナーのおなかに宿る新しい命に向かうものとしてある。そして、それは、ある別の考え方に対する処方箋にもなりうるもので、

「ほら、最近多い『無敵の人』ってさ、自分がなんにもならなかったから不幸だみたいな意識があってあんな風になるわけじゃん。で、この物語はその『無敵の人』に勝つ無敵なの。『なんにもならなくたって楽しいぜ』ってね。そういうのを贈ってあげたいんだ」

 と「わたし」は言う。

 ある価値観を伝える・広めるということは、確立された別の価値観と対立するということでもある。あるいは、価値観を上書きすることにもなる。いかに他人の抱える価値観がくだらなく、無益で、害を及ぼすものだとしても、そこに手を入れる行為には侵襲性が伴う。今作に書かれた希望は、そういった点に無自覚に見えて、それがひどく暴力的だと感じた。故に、ブンゲイファイトクラブに相応しい。作品は自然と価値観を内包する。作品同士が競い合うBFCでは、その暴力が許されている。

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