心臓

 心臓が一鳴きする度に死へと近づいてゆく。死を怖れてはいない。心臓よ、鳴り響け。
 心臓がもつ限り竜也は生きる。
 竜也は莫迦だけど心臓の強さだけは自信がある。
 心臓のみで生きている。
 脳でなにも考えずに、ゆける、という雰囲気で行動してしまい、途中でヤバいと気づくも後戻りできず、ゆくしかない、やったる、という心臓で勝負している。その度に心臓は一鳴きする。
 そよ風が吹いてきて、顔を一撫ぜし、ふわっと草みたいな匂いがした。地面は昨日の雨の水溜まりが残っている。空は蒼過ぎる。鯨の形をした雲が気持ちよさそうに泳いでいる。
 無数の白いテントが張られ、その中では様々なものが売られている。フリーマーケットだ。
 一冊の本が眼についた。
『心臓』
 というタイトルの本だ。本はかなり古いもののようで茶色く紙もぼろぼろ崩れそうで心配だ。古本が好きな人しか手に取らなそうな本だ。著者名は書いていない。五百円。安い。
 竜也はおもむろにレジの方にゆくと、眼鏡をかけたいかにも読書家風な店主が気さくにいらっしゃいと声をかけてきた。
 ずいぶん渋い本選ぶね。
 はあ。
 古本好きなの?
 いや、なんか引き寄せられてしまいまして。
『心臓』ねぇ。著者名は書いてないね。これは本の状態からしてかなり古い本だよ。でもことば遣いは今でも分かることばだからきっと読めるよ。
 竜也は本の中の文章を読まずに本をレジに持っていっていたことに気づいた。心臓が一鳴きした。
 私も読んだんだが、難しいよ。
 難しい本好きなんで。
 心臓で選んだ。
 赤い門の下の石の階段になっているところに腰を下ろし、白いビニル袋に入れて貰った『心臓』をおもむろに取り出し、ぱらぱらと頁を繰った。ぼろぼろ崩れそうな紙は思いの外丈夫で、紙の耐久性の強さを感じた。
 白檀の薫りが鼻腔へ侵入し、とろけるような心地となり、しばらく立ち上がれなかった。
『心臓が一鳴きする度に死へと近づいてゆく。死を怖れてはいない。心臓よ、鳴り響け』
 という書き始めだった。
 どこかで見覚えのある文章だった。
 竜也が書いた文章だった。
 『心臓』は竜也が書いた本だった。
 いても立ってもいられなくなり立ち上がって駆け足でこの本を買ったテントへ向かった。テントの方へいっているのに忽然と消えてしまったようにテントが見つからない。時刻は十八時だった。フリーマーケットは十七時迄だったので、テントは撤収した後だった。辺りは暗くなり静まり返っていた。
『心臓』をどのようなルートで手に入れたのか店主に訊きたかったが、店名が分からない。明日フリーマーケットは開催されない。
 暗く静まり返った焼け野原のようなフリーマーケット撤収後の広場で竜也は時間が分からなくなるくらい立ち尽くした。
 どうしよう?
 ぐうと心臓ではなく腹が鳴った。こんな訳の分かんない状況のときでも人は皆平等に腹が減るんだなと思った。人はどんなときでも腹が減るときは腹が減るから飯を喰わなきゃならん。
 広場を出、正門をくぐると、すぐに大通りで数多の車がゆききしており、先程までの空気と一変し、現実感というものを突きつけられた。大通り沿いの歩道をとぼとぼ歩いていると右に団子屋があったので、みたらし団子を食べた。味がしなかった。腹は満たされた。腹を満たすためだけの食事はなんてつまらなく、旨いものを喰ったときの食事はしあわせなんだよなあと思った。
 しかし腹が満ちれば、『心臓』のことが気になり始めた。かなり古い本なのに書いたのは竜也? 一体どういうことだ?
 竜也は死んでいる?
 いや、違う。
 竜也の心臓はとっくんとっくんと波のように動き続けている。
 すみません。この本知ってますか?
 竜也は往来に出、この辺りではトップクラスの女子高があり、頭のよさそうな女子高生四人の集団が歩いていたので、声をかけた。
 心臓が一鳴きした。
 怖いんですけど。
 四人の中のリーダーぽい利発そうな子がいった。
 心臓が一鳴きした。
 この本ぼろぼろな古本だけど俺が書いた本なんだ。俺が生まれる前に書かれた本に見えるけど俺が書いた本なんだ。著者名は書いてないけど。この書き出しは間違いなく俺の文章なんだ。この本を知らないか? 俺を知らないか? 俺は誰だ?
 ヤバい、ヤバいって、この人ヤバいって。
 女子高生四人は怪奇現象を目の当たりにしたときのように怯えだし走って逃げていった。
 心臓が鳴り響いている。
 俺の本なんだよお、と小さく小さくひとりごちた。
 うーうーと頭に鳴り響くような音が聞こえ目の前が明るくなるとパトカーがきていた。大事になっていた。パトカーから筋骨隆々の警察官が降りてきて竜也は大人しく職質された。捕まりたくなかったからヘンなことはいわなかった。竜也は狂っていず、冷静に現状を俯瞰できていた。大人しく素直に職質に応えると、警察官も面倒臭そうに即解放してくれた。


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