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ドラゴンが降った日 1/2

 目覚めると、私は体育館で横になっていた。
 フローリングの床の冷たさが、衣服を貫通して、背中を突き刺す。寝覚めの悪い私は、ぼーっと口を開けたまま、天井を見つめ、鉄の梁にバレーボールが三つ挟まっていると数えた所で、違和感を感じた。何だろう、と仰向けのまま考えていると、光の差し込み具合が違うのだと気付いた。この体育館では、真っ白な朝日がつるりとした床を照らしているけれど、私の通っていた中学校では、裏山に遮られて、朝日は届かないのだ。
 では、ここは?
 身体を起こして、もう一度驚く。体育館で眠っていたことも、私としては中々の驚きだったのだけれど、周囲にはおよそ百人ほどの人が、綺麗に並んで眠っていた。
 誰もかれも、毛布の一枚もかぶらずに、揃って仰向けで寝転がっている。両手両足をぴったりと閉じて、魚雷のように真っ直ぐ並んでいる彼らは服もまた、みんな同じ、白い洋服を着ているのだった。
 ある意味、壮観だ。五かける二十、足す何人かで、ぴっちりと並び、お揃いの服で体育館に寝転がっている姿は、何か前衛アート的だ。もしかすると、私は知らない内にここへ呼ばれて、眠ってしまったのではないか。もうすぐ監督さんが来て、私を叱るかもしれない。と考えたけれど、いくら待っても、誰も来なかった。
 業を煮やして、隣の人に声をかける。
「あの~……」
 二度三度と話しかけても起きないので、ついに身体を揺すってみると、随分簡単に転がった。
「あれ……?」
 もう一度、触れて分かった。
 この人は死んでいる。彼の皮膚はゴムのようにぶよぶよしていて、抜け殻じみた人の身体には、いくらでも指が沈み込んでいきそうになる。死人の肌は張りがなくなると、いつか本で読んだ。それに何より、彼の身体は私たちが身体を横たえる床と、まったく同じ冷たさをしていた。
 逆隣の人も確かめてみると、同じように、指先一つで簡単に転がった。
「む~ん」
 私は元の位置に戻って、あぐらをかく。いつか見た一休宗純さんのように、こめかみに指を当て、考えてみた。
 これはいわゆる、死後の世界というやつなのでは?
 死体を触ってしまったというショックはあまりない。彼らが、死体というには綺麗すぎるのも、衝撃を感じない理由の一つだろう。いやまあ、死後の世界だろうと何だろうと、私にはまったく関係のない話なのだけど……。
 もう一度、辺りを見回す。彼らは似たような格好で並べられて、眠っていて、こんなシーン、映画か何かで見たような、懐かしさすら覚える光景だ。私は、何かのアートの展覧会だといいな、といまだに思っているのだけれど、スタッフの人はまだ出てきてくれない。ドキュメンタリーの映像を撮っていて、あとでネタバラシをしてくれるといいのだけど、どうも期待感は薄いよね、と。
「もしや、これはやっぱり死後の世界では……?」
「惜しい考えだね」
 ひゃあ、と口から心臓が飛び出した。口を抑えて、これ以上大切なものが出ていかないようにすると、声がまた聞こえた。
「中庭までおいで。そこで色々と教えてあげよう」
 渋いおばさまの声だなぁ、と呑気に思った。親戚のおばさんに似てるかも。バイクと酒とたばこの大好きな、しゃがれ声のミナコさん。と関係のないことを考えている内に、動悸も少しは良くなってきた。胸に手を当てると、心臓はしっかりと動いていた。そこだけ、やたらと熱いのは気になったけど。
 仕方なく、私は中庭を目指すことにした。体育館にいても、どうにもならなそうだったし、言われた通りにしてみるのも、勤勉な学生の美徳だもんね? なんて、うそぶくのは、実は人気のない校舎を歩くのが怖いだとか、そういう理由ではないんだけど、ま、どうでもいいか。
 体育館から校舎へ繋がる渡り廊下を、恐る恐る歩く。校舎の方が低くなっていて、廊下は坂になっている。死んでまで、こけて膝をすりむくのは本意じゃない。出来れば、綺麗な身体で死にたいものだ。
 扉に鍵はかかっていなかった。すんなりと中に入れて、逆に不気味なくらい。すっかり静かな校舎の中は、文字通り時間が止まったようで、埃の溜まった廊下には何の気配もない。あまりに動きのない空気に、息が詰まりそうだった。まるで、この学校まで死んでしまったみたい。
 少し歩いて分かったのは、この学校は口の字をしているらしい。窓から中庭の様子が伺えるけれど、窓際に植わった植物のせいで視界が悪い。しかも、ビオトープでも作ってあるのか、やたらに広い。
 池なんか埋めて、体育館脇のみみっちいテニスコート二面の代わりに、ここを使わせてあげればいいのに。と偉い人に苦情が言いたいだけ。
 結局、ぐるっと一周して、元の位置に戻ってきた。中庭に出られる場所も見当が付いた。あとは一歩、踏み出すだけ……。
「中庭まで来るのに、どれだけ手間取っているんだか」
 べ、別にビビってるわけじゃないんだからね。
「何をしてるのさ。早く来るんだよ」
 また声がしたので、仕方なく中庭へ出て、すっかり放置され、私の背丈ほどまで伸びた雑草を掻き分けていく。視界が開けると同時に、校舎の隙間を縫って差し込む光が、私の目を刺した。
「やっと来たね」
 その声の主は、真っ赤なドラゴンだった。
「さすが死後の世界。何でもありだ」
「バカ。死後の世界じゃないと言ったろう。ま、あんたは一度、死んだけどね」
「訳が分からないぞ、ドラゴンさん」
 ドラゴンが呆れたように息を吹くと、私の胸がどくんと熱く脈打った。
「私の心臓を半分与えて、生き返らせたのさ」
「どうして」
「一番若かったから」
「ドラゴンのくせに、判断基準が人臭いな!」
「この減らず口……!」
 舐められたらあかん、と思い、腕組みをして、ドラゴンを睥睨する。
「それで、ここは?」
「さあね、紅い塔から、少し西に来た所としか」
 紅い塔? もしかして……。
「ドラゴンさん、東京タワーも知らないの?」
「東京タワー? 初めて聞くね。それに私のいた世界では、あんな建物はなかったし、奇妙な乗り物もなかった。ここはどこか、なんて私が知りたいくらいだよ」
 ドラゴンというくらいだから、多分、中世ヨーロッパから来たんだろう。知らないのも当然かっていう、考察が真っ当すぎて、自分で自分を笑っちゃう。
 というか、ドラゴンが現代日本に観光って、どんな未来に生きてるんだよ。
「まったく、何を笑ってるんだか。甦らせる相手を間違えたかね」
「そうだよ! 生き返らせるなら、もっと健康そうで、働き盛りの年収一千万以上の人がいいよ」
「……何を言ってるのか分からない」
 私たちは、たっぷりと溜め息を吐いた。

「お父さん、これお弁当です。途中で食べてくださいね」
 お父さんと呼ばれた男は、妻から弁当を受け取り、車のドアを開けた。
「待たせてすまないね、チアキくん」
 助手席に座った少年は小さく、いえ、とだけ答えた。
「それじゃあ、行こうか」
 秋晴れの高い空の下、車は走り出した
 午後の峠を、彼らはすいすいと走っていく。木々の隙間からは、眼下の港町が見え、傾き始めた黄色い陽を受けて、海と街がきらきら光る。
 道の悪い県道を下り、街の喧騒を抜けて行く。飛行機の着陸できそうな大通りを、二人は無言のまま過ぎた。にぎやかな駅前商店街を右手に見て、車は港へ向かう。
「あれから、もう半年も経つんだね」
 男の言葉に少年は答えなかった。ぼんやりと景色を眺めているのを見て、男は仕方なく、カーステレオに手を伸ばす。
 曲は途中から始まった。
「俊尚さん……これ、何て曲ですか」
 流れ始めた音楽に、我に返ったように少年が尋ねた。
 男は少しうれしそうな顔をして、
「ラストダンスを私に」
 とだけ答えた。少年はそうですか、と言い、
「いいですね、これ」
 と聞こえるか、聞こえないかという声で呟いた。それを聞いていた男はやはり何も答えない。
 秋の陽に照らされて、海がうろこのようにきらめく。港の方から潮の香りが流れ込んできて、遠く、水平線の上を渡る、船の汽笛が港中に響くと、若いカモメが羽を広げて、雲一つない空に舞い上がっていった。
「チアキくん、船は初めてかな?」
「いえ、両親と旅行に行った時、一度だけ」
 そうか、と答えて、男は車を進めた。
 東京へ向かうフェリーが、出発の時を待っていた。

 私は体育館の隅で死体を眺めていた。床からはいやになるくらいの冷気が立って、爪先から私を凍えさせてくる。
 目覚めてから一週間経ったけれど、いまだ死体は腐らない。それはここが寒いからなのか、ドラゴン――アニマが魔法をかけているからなのかは知らない。まあ、臭いがしないので、腐らないことには異論ない。
 しかし、みんな死んだというのに、綺麗なものだった。身体は勿論、瞼や口の中まで覗いてみたけれど、どれも新鮮な魚のように澄んだ色をしていて、肌がアスファルトに張り付いたガムみたいな感触であること以外は、やっぱり眠っているのと変わらない。と、そんなこんなをするついでに、死体を一通り眺めてみたけれど、知り合いはいないようで、ほっとする。私なんかと一緒に死なれていたら、非常に困る所だった。アニマに頼んで、私の代わりに生き返らせてもらわなきゃいけない。
 他にも、死体が何か持っていないか探ったのだけれど、白い服を着ている以外、誰も何も持っていなかった。六文銭も持たない貧乏人め! と冗談はさておき、いや、三途の川を渡るだけのお金を持っていないから、彼らはここで転がっているのでは? ま、その話は置いておくことにしよう。目下、私は大いに暇だ。校舎をぶらぶらと歩き回るのにも飽きた。学校の外に出ようにも、雑草だらけで行く気も失せる。秋とはいえ、身の丈のほどもあるススキ原を、どう歩けというのだ!
 アニマは日なが寝てばかりいて、話し相手にもならない。起きていても、常識が違いすぎて、これもまた話し相手にならないけど……。
 私はこの死んだ校舎に幽閉されたも同然だ。村外れの廃校でサバイバルなんて、喜ぶのは短パン少年だけで、私みたいな都会志向の女子は……自分で言って、悲しくなってきた。
 全寮制の高校を受験したのは、そこが東京だったからだ。毎年、人口が減り、老人が増えましたっていうニュースを楽しそうに見ている田舎から、私は離れたかった。ここに来れば、何かが変わるかもって。ま、何も変わらなかったけど、それはいい。変わらないということが分かっただけでも御の字だ。
 しかし、どうして私が生き返ってしまったんだろうか。
 これじゃあ完全にニートだ。引きこもりだ。何か、何かしなくちゃ、身体の前に心が腐る! という訳で、右手で力こぶを作ってみた。触ると、ふにふにだ。垂れるほどではない。かといって、むきむきでもない。我ながら細身で、かわいらしい二の腕なのでは?
「バカ」とアニマの声が聞こえる気がした。両親でないのは、まあ、父にも母にも叱られたことがないからなんだろうなぁ、と一人むなしく考える。
「あーあ、死んでしまいたい!」
 申し訳ない、申し訳ないなぁ、と死体に謝り、ずるずると壁で背中を削りながら、右を枕にして、横になる。今日も一日が長い。
「ホント、どうして生き返っちゃったのかな」
 思えば、昔から死に頓着しない性分ではあったけれど、こうして選ばれてしまうと生きるのがうとましい。割に本気で、いつ死んでしまってもいいと考え続けた十五年だ。人並みに笑って、泣いて、何不自由なく両親に育ててもらい、身内に理不尽な不幸があったのでもない私が、こうも生きることに意味を見出せない辺り、どうやら、これが噂の現代病ではないか、と考えますがどうでしょか。べつに今すぐ死にたい訳でもないので、そこは誰にも誤解されたくないというか、一度、友だちに話したら、鼻で笑われたので、あいつは許さないと決めている。しかも「じゃあ、ここで死んでみせて」とまで言ってきたあいつを、私は絶対に許さないのだけれど、それは少し置いといて、死にたいのと、今すぐ死んでもかまわないのは、もうピクルスとズッキーニくらい違うので、覚えていてほしい。
 そんな訳で、この体育館にずらりと並ぶ死体の皆さまが、私を妬んでいやしないかと考えるのは、どうもぞっとしない。いや、ぞっとするのか?
 私は、私がここまで生きてこられたのが、不思議で仕方ないのだ。学校で習った生存権とやらは、いやに抽象的で好まない。どんな未熟児でも生かしてしまうという現代医学も、死ぬ権利は保証してくれないし、かといって、わざわざそれを選ぶか、と問われれば、やっぱり私は惰性で生きていく方を選ぶ。
「あ、そっか」
 私も、惰性で選ばれたのか。

 チアキ、とぼくを呼び捨てにするのは、地元では茉莉だけだった。他の奴らはなぜか、ぼくのことをフリオと呼ぶ。
 茉莉とは、昔から家族ぐるみの仲で、ぼくと茉莉が出会ったのも、元々はぼくらの両親が友人同士だからだった。付き合いは、人生のほぼ全てといっても過言じゃない。
 茉莉はぼくと違い、何でもそつなくこなした。集団から遅れがちなぼくをどう思っていたのか、いつも側にいてくれた。それだけに、東京に行くと聞かされた時はかなりショックで、ろくに挨拶もしなかった。
 出発の日、それが最後になると分かっていれば、ぼくは茉莉に会いに行っただろうか。多分、それでもぼくは行かなかったと思うけど。
 そして、あの日、ドラゴンが降った。
 東京に着いたばかりの茉莉は、観光に東京タワーに上っていたらしい。そこへドラゴンが落ちて、茉莉は死んだ。いまだにドラゴンがどこから来たのかは分からないし、あの時の瓦礫もまだ片付いてはいない。
 あれから半年が経って、ぼくとおじさんは出来たばかりの慰霊碑に、手を合わせに行く。初めは断った話だけど、必要なことだから、と説得され、フェリーで東京へ向かう。
 それでも、ぼくはいまだ茉莉が死んだことが実感できていない。彼女が死んだことよりも、東京へ行くと聞かされた時の方がよっぽど響いた。もしくは、あまりに衝撃すぎて、ぼくの心は麻痺しているのかもしれない、と自分を慰める。
 茉莉が死んだと聞いて、哀しくならないのは、それなりに傷付くことだ。家の畑で採れた野菜を送ってやろうとか、田舎の仲間内の話を、茉莉に話してやろうと思った時、もう彼女はいない、と考えるのは何か違和感がある。
 遠く離れた東京で忙しくしていて、古臭い田舎のことなんて忘れてしまったんだ、というドラマで見かけるような感傷の方が、むしろ身近だ。
 ぼくはこのまま、茉莉を忘れていって、見も知らぬ女性と結婚し、子どもを授かるのかもしれない。そして茉莉に子どもを抱かせて、お前も早く結婚しろよ、なんて言うのだろうか。いや、きっと兄たちの世代はそんなことをするだろうけど、ぼくらは違う。
 ぼくらは結婚もしなければ、子どもも産まないかもしれない。田舎を出て、都会へ行った人間は特に。
 子どもなんてものは、本当にコウノトリが運んでくるんじゃないか、とぼくらは考える。高校に入って、した奴らは、あそこに突っ込んだもので子どもが出来るなんて、考えないだろう。ぼくもそう思う。
 まして、誰が東京タワーにドラゴンが落ちたなんて信じるのか。誰が、上京した同級生が死んでしまっただなんて……。
 やっぱり、子どもはキャベツ畑で出来上がる。そう考えることと、女の子の足の間から、干からびた猿みたいな赤ん坊が這い出てくることは、まったく同じだ。
 ぼくらもそうして産まれてきたことを棚に上げ、自分だけはそうはならないと夢見てる。
 だから、誰かが死んだなんて、小さな箱に詰められた集積回路ほどの価値もない。決して触れられないのなら、それって存在していないってことなんじゃないのか?
 いまだにぼくは、自分より早く大人になってしまった茉莉を、羨んでいるのかもしれない。

「チアキくんは、茉莉のこと、どう思っていたんだい?」
 出来上がったばかりの慰霊碑には、沢山の花が手向けられている。むっとするほどの花の香りを嗅いで、慰霊碑に手を合わせ、ゆっくりと流れていく人の群れを眺めつつ、おじさんとぼくは柱に寄りかかって、おにぎりを頬張っていた。
「……分かんないですよ、そんなの」
 献花台の真ん中で、一人泣き崩れるおばあさんがいた。家族も連れ添いもないのか、人波の中で、おばあさんは背を丸くして、泣いていた。周りは水が引くように、さっとそこから離れ、遠巻きにその様子を眺めている。誰か、慰めに行かないものか、とぼくは考える。
「茉莉は、多分、チアキくんのことが好きだったと思うよ」
 おじさんはそう言って、お婆さんの方へ歩いていった。おばあさんの横にしゃがみ、背中に手をかけ、二言三言、何かを話すと、おじさんはおばあさんに手を貸して、助け起こした。
 おじさんはこちらに近付いてきて、
「悪いけど、ここで解散にしようか。ホテルの場所は分かるよね?」
 そして、おじさんと別れた。あっちにはあっちの都合があるものだ。ぼくも用がある、と言った手前、どこか観光にでも行こうかと思ったけれど、行ってみたい場所など東京にないのだった。
 仕方なく、隣接する自然公園へ足を向けた。
 早い時間なだけあって、人影はまばらだった。
 まだ乾ききっていない朝露が、短く刈り揃えられた芝生の上で豊かに実っている。いたずら心に足を踏み入れると、小さな滴は光となって弾け、露の重さに垂れていた葉が大きく伸びをするように、顔を上げた。まだまだ目覚めきらない朝が、重いまぶたをこすりながら、ようやく起き出してくる。雲が切れて、斜めに差し込んだ陽の光に、驚いた羽虫が一斉に跳び出した。
 ぼくは舗装された道が何となく嫌になって、わざと土の上を歩く。踏みつけられた草は、ゆっくりと身体を起こして、住処を荒らされた虫が威嚇するように、ぼくの耳元を飛んでいく。
 そんなに悪い気分じゃない。
 今日一日、ここで暇を潰してもいいかもしれない、と思う。どこかのコンビニでお昼でも買ってきて、日なが、ここでゆっくりと風に吹かれているのもいいんじゃないか。と考えた所に、親子連れの一団が来た。子供たちが声を上げて走り回り、大はしゃぎしている姿を見て、目を閉じた。
 途端に、この場所が居心地悪くなり、歩調を早める。視線を巡らした先に、山へと続く小道を見つけ、深く考えもしないまま、足を向けた。今は一刻も早く、あの声から離れたかった。
 道は、予想に反して長く続いた。てっきり管理用の小屋でもあるものと思ったが、そうではないらしい。が、人通りはそれなりにあるらしく、道は土が露出している。その様子を見るに、この先もそうそう山奥という訳でもないと楽観し、ずんずん進む。
 次第に勾配がきつくなってくる。秋とはいえ、日差しも強くなってきて、汗ばんだ肌にシャツがくっつく。引き返そうかとも思ったけれど、長く来たことを思い出して、溜め息を吐く。道のりを考えると気が滅入るので、下を向いて歩いた。
 不思議なほど、静かな森だった。ひたすらに自分が歩く音が聞こえてくるだけで、鳥の声もなければ、風の音もない。
 生きながら、死んでしまった森、という感じが浮かんだ。今はかろうじて、生きていた時の姿を保っているが、この森は五十年かけて、死んでいくのだろう。草は枯れ、土は腐り、雨水の溜まってできた泥沼からは、胸を焼くような霧が出る。
 立ち止まって、空を見上げた。くだらない妄想だ。けれど、見上げた空も、生き物の感じのない、作り物めいた空だった。カッターナイフで切りつければ、そこから空が剥がれて、裏で世界を回す歯車が見えるんじゃないか。
 たっぷりと息を吸って、また歩き出す。
 目の前には、薄暗い校舎が見え始めていた。

 校舎は口の字をしていて、どうも今は廃校になっているみたいだった。グラウンドから中庭まで、ぐるりと見回した結果、手入れされた跡は全く見受けられない。
 そして、出入り口がどうやら一つ。体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の扉には、鍵がかかっていなかった。
 音を立てないよう、ゆっくりとドアノブを回した。開いた隙間から、中に向かって風が入り込み、床に積もった埃が高く舞って、土っぽい臭いに鼻がかゆくなる。
 中は死んだように静まり返っていた。
 自分の足音が反響して返ってくる度に、校舎に充満する何かの気配が倍々で増していく。ゆっくりと歩くぼくの後ろを、足早に追いかけてくるぼくの足音。さっと横を通り過ぎたかと思えば、また別の気配が正面からぼくにぶつかってくる。
 ぼくは半身になりながら、廊下を歩く。前と後ろを何度も振り返り、教室を覗き込んで、一呼吸ずつ歩みを進める。
 二階の教室を半ばまで来て、引き返すことを考え始めた。空気が濁っていて、胸が悪く、少し目眩も感じる。単純にぼくが怖がっているから、そう感じるだけなら、それでいい。けれど、こんな捨てられた校舎で、無防備に倒れたくない。
 そう考え、覗いた教室に、一人の女の子を見つける。一瞬、血液が凍ったように感じる。人?
 すり足で角度を変えて、彼女の様子を窺う。机に突っ伏している彼女の顔は、組んだ腕と髪の毛に邪魔されて見えない。
 彼女は生きているのか?
 もう少し前に出て確かめようとした時、靴が鳴った。
「……あっ!」
「チアキ……?」
 顔を上げた少女は、あの日死んだはずの茉莉だった。

「ありがとうございました。どうも親切にして下すって」
 俊尚は、慰霊碑の前で泣き崩れたおばあさんと共にいた。落ち着かせるために、話を聞いていたのが、いつの間にか、喫茶店でお茶を飲んでいる。
「ご迷惑だったでしょう? 本当に、すみませんね」
「いえいえ、辛いお気持ちは痛いほど分かりますから」
「あの日、夫を失ってから、初めてこんな風にあたたかい気持ちになれました。ありがとう」
「いえ……」
 俊尚は頭を掻いて、言葉を濁した。俊尚自身、まだ茉莉のことを受け止めきれていない。だからこそ、チアキを誘い、慰霊碑に手を合わせに来たのだが。
「あなたも、あの日に?」
「ええ、娘が東京タワーに上ってましてね」
 おばあさんは大げさなほど息をのむ。
「さぞ、お辛いことでしょうね」
「はあ、まあ」
 俊尚の言葉は要領を得ない。話すのには、まだ時間が必要なことだった。
「もしよろしければ、こちらに参加しませんか?」
 慣れた手つきで、おばあさんが差し出したのは、ドラゴン被害者、痛みの会と書かれたチラシだった。
 俊尚は目を見開いて、
「あなたも、こちらに?」
 と尋ねる。
「実は私、こちらの会に一度、参加してみたくて、田舎から出てきたんです」
「まあ、本当に! なら、早く行きましょう。午後の会に遅れてしまうわ」
 俊尚はおばあさんに連れられ、急ぎ足で喫茶店を出て行った。

 深い森の中の校舎に、陽は差し込まない。秋の冷たい風が、校庭に渦巻いて、雑草をかき乱す。誰も使わなくなった鉄棒は風化し、風に乗った鉄の粒子が高く舞い上がって、錆色に光る。深く影の差す教室に届くのは、にぎやかだった頃の、学生たちの嬌声の思い出だけだ。
「チアキさ……もしかして、私を追って、自殺とかしちゃった?」
「する訳ないだろ」
 首をかしげる茉莉。
「じゃあ何、交通事故とか?」
 ぼくは大きく溜め息を吐いてみせる。
「自分が三分前に何て言ったか、忘れたみたいだな」
「え、何て言ったっけ?」
「生き返ったって言ったろ。ぼくは死んでないよ」
「そっか、死んでないのか」
 ぼくらは座ったまま、壁に背中を預けて、窓を見上げていた。茉莉は思いのほか、強くぼくの手を握り、少し痛いくらいなのだが、言ってやるのも癪だから、黙っている。
「何だか、すごい久しぶりだよね」
「まあ、軽く一年になる?」
「それはちょっと言いすぎ。ま、でも、半年以上だね」
「うん、かなり長かった」
 茉莉は、空いている手に息を吹きかけた。
「寒いからさ、もっと寄ってよ」
 腰を持ち上げて、肩が当たる距離まで近付く。
「寒いって言ってるんだからさ」
 茉莉はぼくの腕を絡め取るようにして、ぴったりと身体を寄せた。
「毛布、体育館にならあるんだけどね」
「……体育館じゃ、ちょっと遠いな」
 でしょ、と口角を上げて、茉莉はぼくの手を握り直す。彼女の寄り添う左側が温かい。ぼくはその体温をもっと感じたくて、目を閉じた。
「これ、夢だったりして。どう思う、チアキ」
「夢でもいいんじゃない? どうせ覚めるなら、気にしてもしょうがないし」
「……そうだね。夢なら、何でもいっか」
 茉莉がぼくの頬に触れた。小さく水音がして、右の頬にやわらかな感触が残り、振り向けば、真っ赤な唇が薄く濡れていた。
「何でほっぺなんだよ」
「だって……」
 答える暇も与えず、顔を寄せた。何かを考えだせば、出来なくなってしまうことは分かりきっていた。
「ね、もう一回」
 お互い、目も見れない。胸の鼓動が、握った手の平から伝わってしまわないか、不安になる。
「目、閉じろよ」
「やだ」
 茉莉は目元を険しくして、ぼくの目を見た。
「このまま、してよ」
 茉莉に見られている目元が、涙が出そうなほど熱くなる。唇にできたささくれが、茉莉を傷付けてしまわないか、と頭の右の隅で考えた。
 茉莉以外と交わした初めてが、今はただ邪魔だった。忘れたい思い出を邪険にして、拭い去るために精一杯、茉莉に尽くそうと思った。
「っ! 舌、入れるとか……」
 ぼくは茉莉に胸を押され、少しよろめく。茉莉は眉をひそめて、口元を拭った。
「そういうんじゃ、ないから」

 夜が来た。
 茉莉は毛布を一枚だけ寄越してきて、死体だらけの体育館で眠ってしまった。死体の横で寝るだけの勇気のないぼくは、体育館を出て、渡り廊下に立っていた。
 廃校の夜は月に照らされて、銀色に映えている。森の奥からは、虫の声がしきりに響いていて、その甲高い金属質な音色が、月の光を銀色に変えているんじゃないか、と思う。
 携帯電話のディスプレイの光を浴びて、ぼうと月を見上げた。
 おじさんに連絡を取ろうと開いた携帯電話は、圏外だった。ここは茉莉が言うように、本当に死後の世界なのかもしれない。生き返ったとか、ドラゴンの心臓を半分分けてもらったとかいうよりも、その方がよっぽど受け入れやすい。もしかすると、これは夢なのかもしれないけれど、ぼくの夢であるなら、もう少しだけでも、茉莉がぼくに優しくてもいいんじゃないか?
 なんて、あれが茉莉なのだ。
 失いたくないな、と思う。茉莉が生きていてくれて、本当に良かった。そして、そう思えてほっとしてる自分がいる。ぼくは茉莉が好きだったのだ。茉莉が死んで、本当は哀しかったのだ。今日、それが初めて分かった。
「良かった……」
「本当に、そう思うか?」
 校舎に、低く声が響いた。
「本当にそう思うなら、中庭へ来い」

 ドラゴンは、自分をアニマと名乗った。
 建物に遮られて、光が乏しい中庭で、アニマの目が赤く光っていた。
「茉莉から、どれほど聞いた?」
「どれほどって?」
「生き返ったことについてだ」
 荒い鼻息に、少したじろぐ。
「……ドラゴンに心臓を分けてもらったって」
「それだけか?」
「それだけ……?」
「あの、バカ娘。あれほど言い聞かせたのに」
 茉莉のことを、バカ娘と呼ぶドラゴンの声には親しみが籠もっていた。
「これでは生き返らせた意味がない」
「アニマ、だっけ? 何の話?」
「茉莉は、どうやら生きていく気が全くないらしい。何度言ってみせても、首を縦に振らない」
 思案顔のアニマは独り言を繰る。
「茉莉が言う通り、生き返らせる人間を間違えた。生き物である以上、命を吹き込んでやれば、喜ぶものと思ったが、あのバカ娘は」
「アニマ。そろそろ、ぼくにも分かるように話してくれる?」
 ぼくの声に、アニマがはっとする。
「……茉莉は、このままでは死ぬ。私と共にな」
「それ、どういう意味」
「元々、私はこの世界の生き物ではない。ここでは、私たち魔法静物の源であるマナが手に入らないため、近い将来、私は身体を維持することができなくなり、消滅するだろう。勿論、その命を共有する茉莉も同様に」
「どうにかならないのか?」
「だから、お前を呼んだんだ」
 アニマの顔がぐっと近づく。
「茉莉は正しく言葉通りの意味で、生ける屍だ。お前は、そんなあいつを救えるか?」
「ぼくにもできることがあるのか?」
「だから、そう言っているだろう――!」
「――何でもする! 茉莉を救うためなら、人だって殺してみせる」
「……なるほど、分かった」
 アニマの顔が下がっていく。
「お前に一つ、預けておこう。これをいつ使うのかは、お前が決めろ。手を出せ」
 そう言って、アニマは手を伸ばしてきた。
「少し痛むぞ」
 そして、アニマはその爪でぼくの手の平を貫いた。
「それは、お前の命を分け与える術だ。何に使うのかは、言わずとも分かっているな」
 ぼくが頷くと、アニマは真剣な顔を緩ませた。
「で、お前は茉莉のことが好きなのか?」
「……」
 突然のことに、二の句が継げない。
「好きなんだろう。繁殖したいのだろう?」
「何だ、この下世話な魔法生物は」
「上位種であるドラゴンにこの口のききよう。この時代の人間は面白いな」
「いや、面白いのはお前だよ。何だよ、繁殖したいって。露骨すぎるだろ」
「だが、事実だ。この思春期男子!」
「くたばれ、エロドラゴン!」
「そうだ、何ならアドバイスしてやろうか。もっと茉莉といい関係になれるように」
「誰がドラゴンに恋愛相談するんだよ……」
「するだろう、普通に」
「だから、どこの世界の普通だよ!」
 アニマの鼻息が、そこはかとなく荒い。
「楽しんでるな? 人のことからかって、楽しんでるだろ!」
 こらえきれなくなったのか、アニマは大口を開けて、笑いだした。
「ああ、愉快だ。まったくチアキ、お前という奴は」
「何だよ」
「お前に茉莉が救えるとは思えないな」



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