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これは描きかけの絵だけど

言葉が上滑りする。からっぽにしてまた考えよう、また考えられるよ。って、ずいぶん思えるようになったけれど、ちょっと怖い。寂しい。明るい気持ちでお話していたいよ。思考が狭いところに入り込んで、今出会うべき瞬間を逃しているんじゃないかって怖くなる。寂しくなる。
今は、言葉を考える頭を使おうとすると、「闘い」が始まってしまう。この闘いは、今、大事なことだと思っているけど。

ひとつひとつ、闘いを終えていっている感じがするんだよ。今向かっている闘いが、もしこれきりで終わるなら、それがいい。立ち向かえているのがこれまでの自分からしたらすごいことで、すごいね、わたしはえらいねって気づきながら、つらいところに行ったり戻ったりしている。
ここに書いてきたようなことも、この先一切書けなくなるんじゃないかと思ったりもする。でも、書かなくてよくなれるならそれでいいとも思う。
それにきっとまた新たに話したいことが出てくると思うんだよ。
その先にある気持ちこそ、本当に見てほしいものであるはずだよ。

新しい気持ちで、新しいあなたに会いたい。
だけどすこしだけ、たたかいの中にいるわたしの姿を見てほしくもある。

結局、闘い抜くのは自分自身で、だけど、その姿を、誰にも見せないようにきれいに覆い隠して、笑おうとするからわたしは、どこに行ってもついに「蒸発してしまう」のであって、それを繰り返してきたのであって。
ここではきっと誰も、わたしに笑っていろとは言わないんだと思う。
寂しくても居ていい。今のわたしは自尊心がめちゃめちゃに壊れた状態だけど、それでも構わない。わたしはひとりじゃ存在できない。でも、少しずつちゃんと分かっていて、誰かに助けてもらっても、立ち上がるのは自分の意志だ。過去のわたしは、助けてもらった時に、それが全部助けてくれた人の手柄だと思ってしまうところがあって、わたしは何もできない、って思ってしまうところがあって…でも今はもう少し、分かってる。わたしに立つ意志があるから、助けられたと思うこともできるんだということ。

わたしのための言葉をあるようにする。わたしがわたしを救うために、言葉をかける。わたしに届くのはそこに書かれた言葉の奥にあるわたしの気持ちで、言葉は誰かほかのひとに届くために形になったものだと、書くときのわたしは思うのだけど、誰かがそこに触れた時に、わたしの言葉がわたしのもとに、届くことがある。不思議だなあ。

自分で書いたことを、見れば思い出せるのに、何度も何度もひとりぼっちに陥るんだよ。でも、それはいつも、新しい闘いに向かって行っているからだね。
わたしの書くことは「出来事」ではなく、日々実感している気持ちを言葉にして置いていってるので、当たり前と言えば当たり前なのだけど、知っているはずの気持ちを、何度でも思い出すように、自分から教えられる。何度でも、毎日だって同じ気持ちになっていいんだよ。

触れてくれてありがとう。わたしが存在していることに、気づかせてくれてありがとう。わたしはひとりじゃ存在できない。誰かの手を、あなたの手を借りて、もっと存在していたいよ。


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今日の絵は、わたしにとっては描き途中の絵なのだけど、誰かのための、「今必要な欠片」になることもあるのかもしれない。これまで書いてきたことの多くも、わたしにとっては、自分を表現していくための「途中」の姿だと思っているけれど、それがいつかのわたしに届くこともあるのだから、不思議だね。もがいて苦しいところを見せるのは、全然楽しくなくて困る。でも、これが自分にとっての翼になるんだから面白い。つながってくると楽しい。世界はちょっと意地悪だね。

たくさん楽しいのがいいなあ。見てくれるひとも巻き込んで、大きな楽しいになることをしていたいな。
あなたが触れてくれるから、わたしは「楽しい」でいられるよ。
もっとたくさん、楽しいわたしを見せていたい。

(そのためには、苦しいわたしも、見せなきゃいけないってことかなあ…)



恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。