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三日坊主日記 vol.270 『自分は何者か深く考えてみる(2)』

今日は午後から夕方まで時間があったので、久しぶりに「自分が何者か深く考えてみる」の続きを少し。


父と母が別居するようになってから、母と僕は二人で何ヶ所か転々としたということは聞いている。


ただ、それが正確にどことどこを転々としたのか、その理由がなんだったのかは、当時幼すぎた僕の記憶にはほとんどない。後になって母に聞いたのかも知れないし、周りの誰かに聞いたのかも知れないが、今となっては朧げな記憶か、記憶の書き換えなのかは分かりようがないモノが薄らとあるだけ。とにかく、母は幼い僕を育てるために、唯一頼ることのできる祖父と祖母が住む家のなるべく近くに暮らし、仕事を探していたのだと思う。


記憶がはっきりと今に繋がっているのは幼稚園の年長さんか、その少し前からなので3歳か4歳か。その頃にはおしゃれな祖父の一家は神戸から大阪府の守口市に引っ越していた。戦争で神戸にはいられなくなり、広島の田舎町へ疎開している間に神戸の家は焼けてしまい帰れなくなった。その後紆余曲折あって守口に落ち着いたようだ。


とにかく、当時の僕は朝起きて身支度を済ませると母と二人で祖父母の家へ行く。母は僕を預けて仕事へ行き、僕は朝ごはんを食べてから幼稚園へ向かう。幼稚園が終わったらまた祖父母の家に帰り、夕方母が仕事を終えて帰ってくるのを待ち、祖父母の家で夕食を食べ、母に連れられて家へ寝に帰る。そんな生活が小学校へ上がってからもしばらく続いた。


だから、僕の記憶の中で台所に立っているのは母ではなく割烹着を着た祖母である(僕のこの記憶が後々結構いろんなことの火種になる)。早朝からご飯を炊いて、まず神棚と仏壇に炊き立てのご飯とお茶をお供えして感謝のお参りをする。そして味噌汁を作り、ちょっとしたおかずをささっと拵えて朝の食卓の用意をする。僕の中で祖母はいつも台所にいて忙しくしている人だった。


当時としてはとても都会的でハイカラな祖父とは違い、祖母は岡山の山奥で育った人で、黙々ととてもよく働く人だったように思う。自分の趣味などはなかったんじゃないだろうか。習い事をする訳でもなく、出かけるといえば神社へお参りするか、お寺へ行くか。今では考えられないような男装女卑の社会で育った、家政婦のような人だったのかも知れない。知らんけど。


そんな祖母は僕にはとても優しかったように思うのだけど、娘たち(母と叔母たち)には超がつくほど厳しかったらしく、みんな口を揃えて祖母のことをよくは言わない。祖父の悪口は聞いたことがないんだけどね。そういう意味でいえば、実際に家の中心にいて仕切っていたのは祖母の方なんだろう。祖父の留守を預かって切り盛りする厳しい人。でも僕にとっては太陽のような人だったと記憶している。


こんな環境で育った僕は、母子家庭にありがちな所謂人恋しさというか、ひとりぼっちで時を過ごさなければならない寂しさという経験はあまりない。しかし、その一方でいつもここは僕の本当の居場所ではないという、ひとりぼっちとはまた違った意味での寂しさをずっと感じていたような気もする。この環境は良い意味でも逆の意味でも僕の人間形成に大きな影響を与えたのは間違いない。


ただし、僕のように母子家庭で育った子供は決して珍しくもなかったんではないか。母と僕が落ち着いた守口という街は決して裕福なところではなかった。というか、大阪でも比較的低所得の人たちが暮らしていた地域だ。だから結構いろんな人たちがいた。もちろん古くから暮らす裕福な地の人もいたが、地方から出てきて苦労した人たちや、なんらかの理由で流れ着いた人たちなどが多かったから、皆似たような環境だったかも知れない。


では、この生活が僕の人間形成にどんな影響を与えていったのか。


いやぁ~なんだか嫌な展開になってきたなぁ笑。取り止めのない話にしかならないような気がしてきたんだけど、また気が向いたら続きを書こうと思う。

祖父の家の僕、昭和38年とか39年頃か


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