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折口信夫 『死者の書』


「死者の書」への批判

文芸評論家の本多秋五は、短文「『死者の書』メモ」のなかで、「死者の書」がいかに歴史小説として破綻しているかを指摘している。以下、箇条書きで示してみよう。

・大津皇子と中将姫の話が内容として二つに割れており、当麻の語部の姥が二者を仲介するが、それは論文ならともかく小説としてはつながらない。
・夢の部分と客観描写が混在して、読者を困惑させる。
・歴史的には中将姫が当麻寺に入ったのは天平宝字六年か七年のことだが、小説では姫の父の藤原豊成が大宰府に送られたのが「さきをゝとし」となっているので、作者は天平宝字四年を念頭に置いているようだ。この年には大伴家持はすでに因幡守に飛ばれており都にいるはずがない(八章)。またこの頃、藤原仲麻呂は大師になっておらず、仲麻呂と家持の会見もあり得ない(九章)。
・三月一四日の春分の日に奈良に行ってみたが、太陽は生駒山の北に沈んだ。二上山のへこみに太陽が没することは不可能であろう。

本多秋五の指摘にはもっともなところもあるが、むしろその反対に、「死者の書」の歴史小説や近代小説の定石や約束事からはみ出しているところが、魅力だとも思われるのだ。

語りの構造

六章の主語の移り変わりと語りの構造に注目してみたい。最初は主語なしの客観描写で、「門を入る松風」と共に寺の様子が描写される。作者の視点は空から見下ろすような鳥瞰的な視野、あるいは遠望を確保するような遠目の視点から徐々に近づいてきて、揺れ動きながら少しずつ中将姫に寄り添っていく。
主語がない状態から「旅の若い女性」「旅の女子」「その女性」という具合に近づいていき、呼称が「此郎女」「旅の郎女」「姫」と変っていくと、作者は主人公に乗り移るかのようにほぼ同化する。
六章の後半で、中将姫は大陸から来た経文を写経するうちに心が立ち騒いでくる。大津皇子が登場する一章と五章で、客観描写と内なる声が一段下げによって区別されていたのに対し、この部分では外部の描写と姫の心の声が語りのなかに混在している。


作者の位置

作者の折口信夫は明らかに大津皇子よりも、中将姫に寄り添って書いているように見える。どうしてなのか。「山越しの阿弥陀像の画因」には、「死者の書」を書いたときの動機が語られている。
「こぐらがったような夢をある朝見た。これが書いてみたかった。書いている中に、夢の中の自分の身が、いつか中将姫の上になっていたのであった」
折口の弟子の池田弥三郎によると、その夢は「男の友人から求愛された夢だった」という。このことは「死者の書」の小説のなかの、墨汁のしたたる筆で写経をする内にエロティックともいえる恍惚状態となり、神の嫁と化していく中将姫の姿にも重なってくる。

「死者の書」は折口の夢を契機として書きはじめられた。物語は、大津皇子や天和日子の神話や中将姫伝説をベースにしている。さらにそこには、春分の日や秋分の日になると古代の女性たちが沈む日を追ったという「山ごもり」「野遊び」の慣習がモチーフとして重ねられている。
この小説は「山越しの阿弥陀像」を描いた古代人の心象をつかむ折口信夫の直観力をバックボーンにして、神話的で、詩的なイメージを丹念に折り重ねていくことで、複雑な文学的空間を形成している。
詩人として、男色家として中将姫の内側に憑依できる折口だったからこそ、このような歴史小説や近代小説を大いにはみ出る呪術的で、詩的な散文が書けたのかもしれない。

小説『死者の書』

民俗学者・折口信夫の歌や戯曲、小説などの創作は「釈迢空」の名義で書かれている。その中で最も有名な作品が『死者の書』である。折口は「山越しの阿弥陀像の画因」という文章のなかで、それを書いた動機として「こぐらがったような夢をある朝見た。これが書いてみたかった」と言う。

弟子の加藤守雄は『釈迢空・折口信夫研究』のなかで、折口本人から聞いた伝聞として「中学時代の昔の友人が、夢の中に現れて、迢空に対する恋を打ち明けた」と言っている。その「能役者のように端正な顔の友人」である辰馬桂二のことは、そのときまで三十年以上意識していなかったので不思議でならず、絵解きをして、小説のなかで謎を明かそうしてと書いたのが『死者の書』だというのだ。


定説を覆す

長年、この加藤守雄の説が受け入れられきたが、それを二一世紀になって覆したのが詩人で作家の富岡多恵子の『釈迢空ノート』である。富岡は同じ「山越しの阿弥陀像の画因」から引用しながら反駁をくわえる。
「そうする事が亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養になるという様な気がしていた」という一文である。
ここには「かの昔の人」(辰馬桂二)の夢を見させた「古い故人」という第二の人物が登場している。辰馬桂二に対する憧れは「大罪を秘匿するための微罪の告白」に過ぎず、折口のような人が真実の恋に関することを弟子に軽々と話すことはおかしい、と富岡は指摘する。
ふだん弟子たちを「女性」として愛した折口が、「夢の中の自分が中将姫になって」女性となっていたから、「こぐらかつた」気持ちになったのだろうというのだ。

年上の男

供養するために、わざわざ『死者の書』という小説まで書かなくてならなかった相手とは、折口の自選年譜にある仏教家の藤無染(ふじむぜん)という、九歳年長だった「年上の男」だと富岡は喝破する。
折口は十八歳のときに藤無染と麹町で同居生活を送っている。また、その翌年の明治三九年に藤無染が結婚して別れたときを境に、それ以前は恋の喜びを歌った歌が多く、それ以降は痛切な失恋による恨みの歌を数多く詠んでいる。

折口の自伝的小説に「口ぶえ」という作品があるが、これは『死者の書』と共通点を持っている。大阪の家から旅に出て、神主だった祖父が住んでいた奈良の山々を一人さすらうくだりは、郎女が「山ごもり」「野遊び」の風習にならった山歩きを思い起こさせる。
何よりも夏の休暇中に山寺に籠もる年上の友人を訪ね、山の頂で愛を誓い合い、手と手をきつく握りあって心中するラストシーンが、藤無染という人の風貌と重なる。しかし、実際の藤無染は折口と別れた四年後に三一歳の若さで病死してしまった。


供養の書

『死者の書』を供養のための小説として読むとどうなるか。たとえば、十三章。
春分の日に二上山の間に俤人を見て山を歩いた藤原南家郎女は、飛鳥の寺の結界を破ったために、小さな寺の庵室で物忌みをしている。そこへ耳面刀自への執心が残る死者の滋賀津彦が、幽界から美しい郎女のことが耳面刀自に見えるらしく、二上山の骸からさまよい出てくる。

「つた つた つた」という足音がして、帷帳に「白い骨、譬へば白玉の並んだ骨の指」が絡む。「なも 阿弥陀ほとけ」という経文が郎女の唇から漏れる。
古墳から蘇り、外来仏教が入ってくる以前の生者と死者が密接に関わっていた時代を生きた滋賀津彦の魂を、郎女は意識的にか無意識的にか、生と死をより明確に分かつ思想としての仏教の言葉で鎮めようととする。

夢の海の中道

それに続く夢のシーンのなかで海の中道を郎女が歩いていくところが、この小説のなかで最も美しい箇所だろう。白玉のつながった死者の骨のイメージが詩的に処理されて、打ち寄せる波しぶきの白い玉のイメージに引き継がれる。
その後、郎女は滋賀津彦の骸を覆うために機を織り、それから作る衣には曼荼羅が描かれることになる。郎女の夢のなかで語部が尼として現れることからも分かるように、語部という存在が効力を失いかけている時代のことだ。
神話的な世界と仏教的な世界観が拮抗する時代背景において、郎女は古代の呪術的な力でよみがえった死者を外来仏教の力で供養しようとするのだ。

恋人との死別

若き折口信夫は恋人だった藤無染と別れた後、さらに藤の病死によって永遠の別れまでも経験した。この離別による恋しさと怨みのこんがらがった感情が、折口の夢の中に立ち現れて、三十年後に小説を書くことによって解明しなくてはならないと思わせたのだろう。
『死者の書』の第二章を読むと読者は混乱しやすいが、滋賀津彦の目を覚ましたのは、九人の修道者たちであるというよりは、むしろ俤びとを求めて山ごもりをした郎女の力であったというべきではないか。

富岡は「釈迢空」という法名(出家者の名)を折口につけたのは、おそらく藤無染であると推測している。折口信夫は創作するときは生涯をかけてずっとこの釈迢空という名を使い続けた。この名には、それだけの意味が込められていたのだ。
『死者の書』は折口信夫という一人の人が、実人生で深く関わった人間の魂を鎮め、供養するために書かれたという切実な一面を持っている。文学という営みにおいては「私事」を、物を書くことによって解明したり、克服したりする場合があってもいい。この本が過剰なまでの詩的イメージと美しさに彩られているのは、そんな理由からかもしれない。


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