BL/短編小説|赤い片道切符
夏が始まる。
梅雨も明け、連日蒸し暑い日が続いていた。
からりと晴れてくれればいいものの、湿った空気は朝から晩まで身体にまとわりつく。
ある夜、どうにも寝苦しくて目を覚ました。
今が一体何時なのか、時間の確認すらままならない暗闇の中、家族を起こさぬよう布団から這い出て台所で水を飲んでいると、玄関のすりガラスの向こうに男の人影があることに気付いた。
(……来たのか)
男の顔など見なくともわかっていた。
その男は国民学校の初等科から高等科に上がる年にこの町に引っ越してきた級友で、現在町役場で兵事係を務めている阪本詩音だ。
引き戸を開けると詩音は余程びっくりしたのか大きく体を跳ねさせ、二、三歩後ずさった。
「おいおい、こんな夜更けに訪ねて来といて、お前の方が驚くのか?」
「…ぁ、あ…、琉生…」
詩音は咄嗟に手に持っていたものを後ろに隠し、自分の足元に視線を落とした。
「別に…隠すこたぁねぇだろ」
呆れた調子で言ってはみたが、詩音の曇った顔は変わるどころかますます翳りを深めていった。こんな時間に役場から兵事係が来るのだから、誰でも察しは付くだろう。
詩音が後ろ手を組むようにして隠したそれは召集令状、赤紙だ。
四月に本土初の空襲を受け、日本の戦勝ムードは一変した。B−25による市街地へ
の無差別爆撃が始まると、戦局は日に日に悪化し、増兵のため多くの男たちが召集されていた。詩音の仕事は徴兵検査に合格した召集対象者たちに令状を届ける仕事だった。
「やっとか。これでオレも肩身の狭い思いをせずに済むぜ」
暫しの沈黙の後、詩音は隠していた赤紙を徐に差し出した。
染料の不足からか赤というには程遠い薄紅色に変わったその紙は、月明かりの下ではほとんど白に近いような色をしていた。
「……町長が、君のこと誇りに思っていたよ」
「……そうかい」
令状を受け取ろうと琉生が手を伸ばすと、詩音はその手をさっと引いた。
「これは、兵事係としてではなく、僕からの言葉だ。聞いてくれ。……国が、出征兵士の見送りを禁止するって言うから、ここで。当日こっそり見送りに行こうかとも思ったけど、君の覚悟の邪魔はしたくないし、僕も……男らしくありたいから」
詩音と目が合う。ここに来る前に散々泣き腫らしてきたような目ではあったが、今はしっかりと前を向いているように思えた。別れの涙を見せるつもりはないらしい。それでも、堪らずといった様子で縋り付くように強く抱き締められた。
「けど、今だけ…十秒だけ……琉生、死ぬんじゃないぞ! どんなことがあっても、絶対死ぬんじゃない! 君なら、無事に生きて帰ってくるって信じてるから、死ぬな…琉生…!」
何か言ってやりたかったが、胸がつかえて言葉がうまく出てこなかった。言葉よりも先に涙が出そうで、それを必死に堪えていた。
「お前こそ、帰って迎えがなかったら承知しねぇからな」
しがみ付いて離れようとしない詩音の身体を強く抱き締め返し、癖のある柔らかな髪に口付けると、そこで漸く肩の力が抜けたのか、詩音は暫く気抜けしたように身体をこちらに預け、寄りかかっていた。
「列車の時間、遅れるなよ」
身体を離した詩音は、そう言うと恐らくいつもしていることと同じように出征、出兵の日時を確認し、告げた。
渡されたペンで赤紙の受領書の部分に日時と名前を書くと、詩音は少しだけ震えた手でそれを切り離した。そして、ふぅっと大きく息を吐き、大きな声で叫んだ。
「おめでとうございます!」
詩音の声を聞き飛び起きた琉生の両親がバタバタと慌てた様子でやってきた。同じような場面を幾度となく見てきたのであろう。詩音が唇をぎゅっと食い締めるのがわかった。
「確かに、受け取りました」
琉生が背筋を伸ばして静かに言った。
見送る側の覚悟と見送られる側の覚悟がぶつかり合う。
父は呆然とその場に立ち尽くし、母は琉生と詩音の顔を見るや否や泣き崩れた。
琉生の父も母も以前から詩音のことは可愛がってくれていた。
詩音はそんな二人に深々と頭を下げた。
目を赤くし、今にも泣き出しそうな顔をしてはいたが、それでも彼が泣くことはなかった。
あとがき
昭和17年ごろのお話。
いつか続編も書きたいなと思ってます。
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