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「濁り川」

隅田川
左岸を下流に向かって走る

黒光りする下駄が目に入った
近くで 消防署のボートが泊まり
ダイバーが何度も 濁った川の中に飛び込む

よく見ると
下駄の横には銀縁のメガネがあり
キチンと川に向かってそろえられた下駄と一緒に並んでいた

赤色の鼻緒 黒い下駄

ああ ひとりの女が飛び込んだか

花火の季節はもう過ぎたけれど
きっと浴衣姿で
花火見物にでも行くように
女は 川辺の欄干をひらり

越えて 川に
濁った川の中に
ざんぶ

入ったのだろう

そうに違いない

覚悟を持って 彼女は
まだ冷たくはないだろう その水に
隅田川の 濁った水の中に
飛び込んだのだ

もうすぐ 陽は落ちる

縁もゆかりもない
僕がいつまでも その場にいても意味はない
そのまま下流に向かって走り 佃島で折り返し 今度は川の右岸を上流に向かった

再び 現場近くに来た 20分ほどたっていたろうか
まだダイバーたちは船の上から 照明に照らされた川の様子をうかがっていた

ひとりの女 男だろうが、よほどの事情、有名人でもない限り… 飛び込みなどは新聞に一行も載ることはない

その翌日も 僕は川を走った
前日に 下駄を見つけたその場に差し掛かると
数人の黒い服 喪服姿の人たちがいた
花束を川に向かって投げた

濁った水の中に ざぶんッ

飛び込んだ 女
その身内と思しき人たち
どんな物語 事情があったのだろう
川に向かって黙礼する人たちを尻目に
僕は再び 下流に向かった


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