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■カルチャーセンターという「場」


現代散文自由詩人の独り言(65)

◇小説、芥川賞を…という妄想

「詩」を書き綴ってそろそろ1年8カ月。こちらnoteに詩を投稿したのは昨年2月なので、公開するようになってようやく1年半である。

それ以前、今から9年ほど前に2年間大手新聞社系のカルチャーセンター「小説講座」に通ったことがある。地方への単身赴任でその講座は通えなくなり、小説も途中まで書いていたものが途絶した。
東京本社勤務に戻っても、小説を書くことも、元の小説講座に通うこともなくなった。
小説を書くのを止めたのでなく、結果的に書けなかった。書けなくなった。

それで、「詩作」に乗り換えたわけでもない。詩を書き出した経緯は過去にも書いたが、まったくの偶然にちかいものだ。新聞記事で読んだ、初めて存在を知った詩人、北村太郎の生き方に関心を持ったことがきっかけである。
詩について、読むことも、書くことも―誰に教えられた、誘われたものでもない。小説については、結局自分にストーリーテリングの才能と力量がないと分かり、詩的表現のほうが遥かにしやすいので、そちらに気持ちが向いている。

でも本音をいえば、小説―純文学をものして、文学界新人賞⇒芥川賞というトンデモない妄想だけは、今もある(笑)。

先日、その昔通った小説講座の講師の先生が亡くなった、とかつての仲間からLINEが来た。
先生は大手文芸誌の元編集者で当時既に70代後半だったろうか。従って80代半ばは過ぎていただろう。
その講座は、月に2回または3回、自作を持参し、参加者に配布する。先生が赤字を入れて次の回に出席者が合評するという形式だった。
作品は評論、エッセー、自分史のようなものから、時代物、純文学っぽいものまでさまざまだったが、講義の後に、昼食を取りながら話したり、たまに飲み会をやったり、それなりに楽しかった。
参加者は、当時50代前半の僕は若い部類で、上は80過ぎた人も何人かいたし、多くはリタイアした人か、女性でも子育てがすっかり終わったような人たちばかりだった。

で、つい最近読み終えた小説「カルチャーセンター」である。
松波太郎著 書肆侃侃房 2022年5月刊
著者は1982年三重県生まれ。文學界新人賞、野間文芸新人賞受賞。著書に「よもぎ学園高等学校蹴球部」「LIFE」「ホモサピエンスの瞬間」など。芥川賞候補にも2度なっている。

内容
カルチャーセンターで共に過ごしたニシハラの未発表小説が収録され、作家や編集者たちからコメントが寄せられた。松波太郎の説明責任までもが生じる。文章と空白の連なり…これは小説なのかな? 『早稲田文学』掲載を書籍化。

図書館データ

カルチャーセンターで、ものを書き、発表の経験があればこの小説は共感できる部分が多いのではないだろうか。
僕はその部分は面白いと思ったし、「純文学」(芥川賞候補になるという意味で)は、やはり「詩的」な部分、現代詩に共通するようなワケの分からなさの隣にあるなあ、とも思った。

「詩の勉強」のために、最近は純文学系の小説も積極的に読んでいる。山下澄人の芥川賞受賞「しんせかい」や、川上未映子の「ヘヴン」(22年ブッカー国際賞ノミネート)、既に書いたが島田雅彦の「パンとサーカス」、松浦理英子の「ヒカリ文集」などなど…。

この小説「カルチャーセンター」に貫かれている概念のひとつはオブセッションである。obssession=強迫観念、取りつかれること…だ。書くことをただの趣味や教養、暇つぶしではない、もう一つ別の世界につなげたい―という気持ちを持ちながら、それが認められたり、評価されないまま、葛藤する心の原点がそれだ、と僕は受け止めた。
そういうものを、一風変わったスタイルで描いている小説である。その点で、山下澄人より、この松波のほうがずっと力量はある、と思った。

詩もたいへんだが、小説の世界はもっともっと、競争も厳しく、はるかに厳しいのだろう。この「カルチャーセンター」を読んでそう感じた。

さて、今の僕は別の新聞社系のカルチャーセンターで「現代詩実作」を続けている。
参加し始めたのがコロナ真っ盛りであり、他の受講者との交流は1人だけでしかない。その方も、別のところに移った…。今週末もその講義はあるが、終わればまっすぐ帰るだろう…その繰り返しである。

小説「カルチャーセンター」を読んで、昔が懐かしくなった次第。
そして、その世界から上を目指し、外の世界で認められることのたいへんさを再認識した。

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