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欧米と日本 決して超えられない言葉の壁

欧米の人に日本人は「 I love you. 」なんて言いませんと話すと、大抵「悲しい文化ね」と返ってくる。

そう言われて表面上では苦笑まじりに同意してはみるものの、内心では「やっぱり相容れないのかな」と思ったりもする。

そもそも日本人の言葉に対する曖昧さ(テキトーさ)といったら世界でも類を見ない程ではなかろうか。

普段、信号機の進行表示をどう見ても緑色なのにと呼んでいるし、それを疑いもなく受け入れている節がある。正直のところ信号が青色だろうと緑色だろうとどうでもいいのだろう。
その言葉ひとつで誰でもあの微妙な色を想像できるのだから。

青だの緑だのと言葉ではなんとでも言えるから、「愛してる」の言葉もやはりそれが念頭にある。信号機と違うのはそこに確固たる共通の感覚がないこと。

「愛してる」って、あなたの考えてる「愛してる」は、どの「愛してる」?

 これを文化人類学的にHigh context cultureと呼ぶと知ったのは割と最近になってからだ。文化の共有度が高く、コミュニケーションに言語以外の要素を多く求める性質を持つそうだが、日本文化はハイコンテクストの中でも、その一番上に位置している。

その対極に位置するのが欧米文化だ。Low context cultureの意思疎通の基本は言葉の額面通りの明示的に行われる。だからなるべく正確に言葉にしようと努めるし、それに応じて語彙の分岐も多かったりする。

教授に課題を渡し、しかめ面で「OK」と言われる。
欧米的には「OK」と言ったのだから大丈夫。
日本的には「きっとダメだったのだろう」。


 ここまで精神性が異なれば、もはや言葉に対するそもそもの理解が違うのだと思う方が妥当だろう。

以前、解剖学者の養老孟司さんが言っていたことを思い出す。

解剖をして、臓器を分類する。食道と胃というように名前をつけてきたが、その境目を探してみる。目で見ても曖昧だから顕微鏡で見てみる、すると粘膜の違いが見える。それが境界かと安心していると、丁寧に見てみれば、今度は胃の粘膜が食道にあっちこっち飛び散ったりしてる。
結局、ここからが食道で、ここから胃であるという境界は見受けられない。
しかし、言葉にはそれらの要素を切る性質がある。胃だと言えば、それは胃で確定するし、また逆も然り。どちらにもなりうる現実の不確かさ、それを人はノイズだなんかと言って丸く収めようとする。

ラテン語にはこんな諺がある。

「Ignotum per ignotius」

 例えば、子供に「オーブンの熱さ」をフーリエの法則のせいだと説明する。しかし、そんな説明をしたところでオーブンの危険性を理解する子供はいない。つまり言葉はそれだけでは何の説明にもならず、最終的には感覚に落とし込まれなければならないのである。

ハイコンテクストカルチャーで生まれ育った私にはそれら言葉の不確かさが常に脳裏に付きまとうから、
「結局僕たちは何も知らないだろ!!」と言って、
言葉以外の要素を大切にしようとする。

反対に欧米人から見たらどうか?
 
サピエンス全史にある通り、我々はホモサピエンスが霊長類の長になり得たのは、人間が抽象的で存在しないものを信じることができたからであり、言い換えれば、胃と食道の間の存在しない境界線を言葉を使って引けたから成し得たのだと言えよう。ホモサピエンスとしてのアイデンティティはローコンテクスト側にある。

そう考えれば、この日本人のような考え方は極めて原始的な文化と言える。

私は今どちらの言い分も理解できる。
それは私が両方の文化に触れて、バランスの取り方を覚えたからだ。
しかし、ローコンテクスト人間とハイコンテクスト人間が互いに
我を通し合いながら一歩も譲らなければ、分かり合うことはないだろう。

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