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孤独の傷

これからの話は、誰のためでも無く、自分が過去を振り返るときにモヤモヤする性質のアレをなんとかしたいと思ってする話だ。私は21歳か、22歳を境にそれまでの友人関係を全て切り離すことになって、非常に辛い孤独な時間が始まってしまった。それは、私の身勝手さもあり、私の、そう、未熟さが原因だ。問題は、それが人生の何度目の事だったと言うことでもある。それより前は15歳の時、中学生の頃の話だ。その時に、気が付くべき事を全て気がついて居れば、その時のショックは小さかったと思う。しかし、強がって、自分一人で解決出来ると思い、孤独な傷は酷くなり続けた。20代を過ぎ、それでも自分の孤独は終わらず、母親の死が過ぎて、父親が亡くなる前に、結婚が出来、妻の愛情によって、自分は自分一人の限界を越え、世界の存在を認識することが出来つつある。それは前進していると言える。

妻が私の事を好きになってくれなかったら、お互いがお互いを好きになる前の多くの偶然のチャンスが無かったら、私はどうなっていただろうと思う事がある。知り合い以上の人間関係は誰とも作れなかったかもしれない。どうにも解決出来ない悩み事を打ち明け合う仲間も居ないであろう。

孤独の傷は大なり小なり誰でも持っていると自分では思って居る。親しい人が傷つき傷つけられたとか、自分が直接的に傷ついたとか。自分の不注意、もしくは避けようのないピンチに陥って、やはり傷ついたとか。その傷に気がつかなければ、孤独の傷は、本人の成長とともに大きくなる場合もあるだろう。そうなると同じ失敗というか、似たような経験をしがちだ。それは決して悪いことでは無いと思う。そこから誰も想像できなかった所へ行ける人も居ると思っている。それと、今の世界は多くの共有される感情、愛情があり、その世界で自分の傷に気がつかないまま人生をタフに進めて行ける人達がいるとも思って居る。

最近、よく頭に浮かぶのは、恵まれた人を理解出来ない孤独の人と、その逆の場合。孤独の人を理解出来ない恵まれた人だ。どちらかが歩み寄るか何かするべきなのだろうか。世界には「人」は二人だけではなく、もっと小さく言うと国でも、都道府県でも。更に言うなら、人だけで無く、動物も居る。世の中をどうにかしたいとは思わない。しかし、自分の考え方をどうするかは、自分でどうにか決めたい。どう言う人間と付き合っていきたいか、どの位、他人のミスを許せるか。自分のミスを許せるか。リラックスして世の中のどうでも良いと思う事を無視できるか。何処までボールを追いかけたら良いか。先には行きたいと思って居るが、出来れば愛する人と、仲間は欲しい。

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