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車は欲望の塊

車を運転していると、時折、人間の汚い部分を目にする。あおり運転、信号が赤になりかけで発車する、制限速度を悠々と超えて走る。。。運転を30分もすれば、道徳的に良くないことをしている車に数回は遭う。心が綺麗な人はうんざりするか、非道徳的だと割り切るか、仏の心を持ち続けるしかないのだろう。

クルマは贅沢だ!

車を改めて考えてみると、贅沢な乗り物であることに気づく。

金属を加工し、カーボンやプラスチックで補ってつくられるボディ。内装は化学繊維のシートにオーディオやIT技術も駆使している。

地下から掘り出した鉱物や油を使って、快適性に加えて余暇を楽しむ工夫や安全対策にも余念がない。

動力の源であるガソリンなど化石燃料も、遥か遠くの地から船で輸入して積み混んでいる。燃料の補充するためガソリンスタンドや修理のための整備工場なるものが各地に配備されている。

また道路も丈夫で走行しやすいアスファルトを敷き詰めている。蓄熱性が高く、周辺を歩く生身の人間や動植物は酷だが、車の走りやすさでいえばアスファルトが最適なのだろう。

交通量が多い地域は鉄筋コンクリートで高架をかけて立体交差する。より急ぐ人には高速道路と呼ばれるVIP用の道が張り巡らされている。

安全のためのガードレールや信号機、メンテナンスの補修工事など、車のための機能や社会が充実している。

車の目的は目的地に着くこと。そのために車本体から道、付属施設、それらのメンテナンスに至るまで整備している。自転車や飛行機、船に比べて、やり過ぎではないだろうか。

ろくなもんじゃない!

車ですら贅沢な代物なのに、高級車や外国車を誇張する人もいる。贅沢をひけらかす人が集まる車道に道徳が主役なわけもない。非道徳的な自己都合を通し、自分の車を自慢する、実力主義で高慢な場が車社会と呼べる。

環境配慮の次世代は訪れるのか

自然環境から見ても車社会は人間が主役の社会と言わんばかりの存在だ。

自然環境の保護や、循環型、持続可能な社会にしようという声がたくさん上がる。人間の贅沢と高慢を併せた車社会がこれだけ身近になった現在、果たして実感を持って取り組めるだろうか。

そもそも人類は高慢で自己中心的でダメだとわかっていてもやってしまう意志の弱さがある。だらしなくて醜態を華美な衣で隠そうとする醜い生き物だ。

これからの社会を描くのであれば、人は醜いという大前提を考慮すべきだ。だらしないことを大前提に未来を描いていく。理想より現実に伴走した改革が必要となっている。

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